また、この皇子の恋愛術は、光源氏のそれと同じく、皇子の身分を持つからこそ許されるばかりの、ひどく強引なものであった。
その皇子も、最初のうちは、女性と手紙のやり取りをするだけである。もちろん、その手紙というのは、和歌を中心とするものであった。これなら、全く穏やかな交際であろう。
まるで光源氏…女性の自宅に押し掛ける敦道親王
ただ、その折、相手の女性が、それまで全く付き合いのなかった皇子との親密な手紙のやり取りに応じたのは、間違いなく、相手が皇子であるがゆえのことであった。王朝時代の人々の価値観からすれば、皇子から手紙をもらっておいて何も返事をしないなどというのは、けっして許されることではないのである。
また、そのことは、当然、皇子自身もわかっていたことだろう。先ほどの藤原道綱の事例と思い合わせれば明らかなように、皇子というのは、上級貴族家の御曹司でさえ足元にも及ばないほどの恋愛強者だったのである。
そして、問題の皇子は、初めての消息から十日ほど後の夕方、早くも、女性の自宅へと押しかけた。それは、一応、その日に訪問することを、事前に相手の女性に伝えたうえでの訪問ではあったものの、やはり、「押しかけ」と表現すべき訪問であった。
相手が皇子だと、さすがに断れない…
まず、皇子が夕刻の訪問の旨を女性に伝えたのは、その日の昼のことである。となれば、女性の側からすれば、どう見ても、突然の訪問であろう。しかも、皇子から訪問を予告されたとあれば、女性の側には、これを断ることなどできるはずがない。
もちろん、皇子も、訪問することを伝えた折、断られることなどあり得ないと信じていたはずである。したがって、この訪問は、どうしても、「押しかけ」でしかない。
そんな皇子も、女性の家に迎え入れられると、まずは、簾を挟んで女性と対面する。間に簾を挟んで対面することは、皇子が相手の場合でさえ、王朝時代の貴族女性たちにとっては、最低限の権利だったのである。そして、当時は、皇子であっても、その権利を尊重しなければならないものであった。
しかし、そうした我慢が続かないのが、王朝時代の皇子というものなのだろう。この皇子もまた、夜も更けて、月が高く昇った頃、突然、簾をくぐり抜けると、そのまま女性を押し倒し、強引に男女の関係を結んだのである。