恋文の返事が来てもそっけない

この和歌には掛詞の技法が用いられていて、「あふひ」の部分が、賀茂社のシンボルの「葵」を意味するとともに、男女が結ばれる日を遠回しに言う「逢ふ日」を意味する。

したがって、一首の全体の心は、「あなたに懸想しはじめて悩んでいます。葵祭(賀茂祭)の翌々日の今日からですと、次の葵祭ははるかに先のことになりますが、私があなたと結ばれる日もはるかに先のことになりましょうか」といったところであろうか。

よく知られているように、王朝時代においては、女性を見初めた男性は、意中の女性に和歌を中心とする手紙を送るものであり、全ての恋愛は、そこからはじまるものであった。とすれば、道綱の行動も、恋する男性として全く普通のものであったことになる。

これに対して、前大和守の娘は、次のような手紙を返す。

「さらに思えず」

この短い文面を現代語に訳すならば、「少しも心当たりがありません」というところであり、さらに幾らか意訳するならば、「相手をお間違えではありませんか?」というところであろう。前大和守の娘は、道綱の懸想を、きれいにはぐらかしたのである。

5カ月もやり取りを重ねたのに、不成立

また、これ以降にも、道綱と前大和守の娘との間では幾度かの手紙のやり取りがあったものの、毎回毎回、道綱の手紙は、和歌で熱い恋心を訴えたのに対して、前大和守の娘の手紙は、和歌で道綱の気持ちをさらりとはぐらかすばかりであった。

しかも、そんな手紙の往来も、同年の八月を最後にぱったりと途絶えてしまう。そして、これこそが、王朝時代の貴族男性たちの大多数にとっての、恋愛をめぐる現実であった。右の懸想の頃、道綱の父親の兼家かねいえは、権大納言ごんのだいなごんの官職を帯びる有力な上級貴族であったが、その御曹司の道綱でさえ、それも、たかだか前大和守という程度の中級貴族の娘を相手にしてさえ、なかなか手紙のやり取りから先に進めないものだったのである。

京都・法観寺にある八坂の塔の夕暮れ
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「恋愛強者」がやっていた非常識な打開策

だが、光源氏が末摘花をものにしたようなかたちで、楽々と意中の女性をものにする男性は、現実の王朝時代にも、全くいなかったわけではない。光源氏が行使した恋愛術は、全くのフィクションでもないのである。

そして、そんな現実の恋愛強者はといえば、やはり、光源氏と同じく、天皇を父親として生まれた、最も高貴な男性たちであった。そう、それは、皇子たちに他ならない。

例えば、冷泉れいぜい天皇の第四皇子などは、二十三歳の四月の終わり頃、ある中級貴族層の女性と初めて男女の関係を持つのであったが、彼が相手の女性に初めて消息を送ったのは、同じ月の半ばのことであった。つまり、この皇子は、懸想をはじめてから、わずか十日ほどで一人の貴族女性をものにしたのである。