押し倒して、強引に男女の関係を結ぶ横暴さ

だが、皇子の身分があればこその光源氏の横暴は、これだけでは終わらない。

用意された座に着いた光源氏は、まずは、ふすまとを間に挟んで末摘花と対面する。ずいぶんとへだてのある対面のようだが、当時においては、肉親でもなければ夫婦でもないような男女が対面するならば、これ以上に隔てられることが普通であった。ここでも、光源氏の皇子という身分が、末摘花の側にさらなる隔てを自粛させたのである。

それでも、末摘花の心の隔てはなくならない。彼女は、光源氏が言葉を尽くして恋情を訴えても、何一つ言葉を返さなかったのである。すると、これに焦れた光源氏は、簾と襖とを押し退けると、ついに、末摘花を押し倒して、強引に男女の関係を結ぶのであった。

これが、光源氏と末摘花との馴れ初めである。

こんなものは、強姦ごうかんでしかなかろう。が、光源氏という貴公子は、皇子の身分に護られつつ、いつでも、このようなかたちで女性への想いを遂げていたのかもしれない。

藤原道綱の懸想――現実の恋愛は難しい

とはいえ、現実の王朝時代の貴族男性たちにとって、想いを寄せる貴族女性と男女の関係になるというのは、けっして容易なことではなかった。

例えば、藤原道綱みちつななどは、特に若い時分には、恋愛において、連敗に次ぐ連敗を経験している。彼の若き日の懸想については、彼の母親の手記である『蜻蛉かげろう日記』に詳しく記録されているが、それらの懸想のいずれもが、みごとなまでに彼一人の空回りに終わっているのである。

『蜻蛉日記』が伝える道綱の最初の懸想の相手は、大和守やまとのかみを務めたことのある中級貴族の娘であった。旧暦では初夏となる四月、賀茂祭かものまつりの翌日のこと、当時十八歳の道綱は、賀茂社から内裏だいりへと帰還する勅使たちの行列を見物するため、牛車に乗って平安京北郊へと出かける。

そして、その帰り道、たまたま前大和守の娘が乗る牛車に遭遇した道綱は、なぜか、そのときから、前大和守の娘に対して、強い恋心を抱きはじめたのであった。そんな道綱が、翌日に早速にも前大和守の娘に送ったのは、次のような一首である。

「 思ひ初め 物をこそ思へ 今日よりは あふひ遥かに なりやしぬらむ 」
日本家屋の縁側
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