多数派の考えに従わない人を徹底的に責めるテレビ報道

もう一つは「かくあるべし思考」によるものです。たとえば、人間はすべからくものごとに真摯しんしに向き合わなければならないと考える。一種の完全主義者なんですが、だけど、どんなに真剣に仕事に取り組んでいても、誰だってミスを犯すことはある。

それなのに、他人のミスが許せずに責め立てたりすると、自分のミスも許せなくなって、仕事上のプレッシャーやストレスを人一倍、感じるわけですよ。だから、「かくあるべし思考」の人もうつになりやすい。

テレビのワイドショーは、こういう思考も助長しているように思えます。テレビのモノの見方というのは、多数派の考えや社会の風潮に従わない人を徹底的に責める傾向がある。たとえばコロナ禍のご時世では、マスクをしていない人を糾弾するとか、あるいはちょっと人を集めて酒盛りをしたら悪しざまに批判する。

それどころか渋谷の街の人混みを歩いているだけで、「この人たちはコロナに対する意識が低い」と言われるくらい、同調圧力が強くて、善か悪かの二つに分け、「かくあるべし思考」を世間に広めました。そのせいで、国民はコロナに対していよいよストレスを感じるようになってしまった。

渋谷のスクランブル交差点
写真=iStock.com/winhorse
※写真はイメージです

二者択一的ではなく、グラデーションでモノを見る習慣を

問題は、人間のストレスを高めてしまう思考パターンからいかに脱却するかです。つまり、いろいろな角度からモノを見るようにする。

他者に対しても、良い人か悪い人か、優しい人か厳しい人か、自分に対して好意的か冷淡かのように二者択一的な見方をするのではなくて、点数を付けてみるんです。

たとえばこの人は、正直という意味では満点に近いけれど、ちょっとズルいところがあるから、90点かなとか。この上司は仕事に関してやたらにうるさいけれど、自分に対して好意的という意味では70点は付けられるかな……といったように、グラデーションでモノを見る習慣をつけるといいのではないでしょうか。

これは別の言葉で「認知的成熟度」とも言います。認知的に成熟していない人ほどものごとを善か悪か、イエスかノーかの両極端で見るんです。

例えば、ちょっと飲むぶんには薬になるけれど、大量に飲んでしまうと毒になるものって、子供には量の加減がわからないから、子供の手の届かないところに置く。

だけど、子供がだんだん成長してモノがわかるようになってきたら、「これはちょっと飲む分には体にいいけど、たくさん飲むと毒になるから飲んじゃダメだよ」と教えれば、大人の言うことを理解して言いつけを守ることができるわけです。

そうやって認知的に成熟してくると、これくらいなら大丈夫、これくらいになるとちょっとマズいという量の加減がわかる。