「女の子だけの店にしようと」

ニュー東京のオーナーは純ちゃん、小山純子だ。丸顔で、ころころ笑う人である。

ニュー東京が入っている新国際ビルの竣工しゅんこうは1965年。国鉄(当時)山手線有楽町駅から徒歩1分の好立地である。三菱地所が21歳の女子理容師を信用したのは紹介者が大蔵官僚だったこと、そして、保証人に熊本県玉名市の大きな酒販店が立ってくれたからだった。

「お店をつくる時、先生(理容師)は女の子ばかりにしようと決めました。その頃の男の先生は賭け事やパチンコをする人が多かったし、怖かったから、女の子だけの店にしようと思ったんです。

思えば、みなさんが親切にしてくださいました。ヘアクリーム、シャンプー、理容の椅子なんかは材料屋のおばちゃんが安くしてくれました。店を開いた後もお客様を紹介してくれました。みなさんのおかげで店が持てたから、絶対に繁盛させないといけないなと思いました」

純ちゃんは女子だけを雇った。実はそのことがニュー東京の大繁盛に結びついたのである。集めた女子従業員は当初、バラバラの服装でやってきた。理容店の白衣を着てきた人、上はブラウスだけれど下は白いズボン姿の人、遊びに行くような私服姿の人……。服装に統一感がなく、新しい店の一体感が感じられなかった。

「ニュー東京」の外観。丸の内で働く数多くの会社員の髪を切ってきた
撮影=プレジデントオンライン編集部
「ニュー東京」の外観。丸の内で働く数多くの会社員の髪を切ってきた

「真っ赤なミニスカ床屋」が大当たり

彼女が思いついたのがユニフォームを作ることである。

20歳から27歳の女子従業員20人全員に真っ赤なミニスカートをあつらえ、それを着用させたのである。ただし、彼女はオーナー兼理容師だから、ひざ下の長さのスカートにした。

「赤いプリーツのミニスカートが大当たりで、『週刊新潮』さんが取材に来て、それからテレビのお昼の番組『アフタヌーンショー』にも出たんです。川崎敬三さんが司会をしていた頃でした。とにかくお客さんが大勢やって来て、てんてこまい。20人の先生で14席の店でしたが、忙しくて、お昼のご飯を食べる時間がないんですよ。

朝、今と同じで午前8時過ぎから始めて、夜は10時頃までやったこともありました。いちばん儲かった時、一日で100万円になりました。ひとりで20人以上の頭を刈ったんじゃないかしら。あまりに忙しかったから、募集をするでしょう。すると、一日働いただけで辞めちゃう子もいたんです。それでも私にとっては、一日でも働いてくれただけで神様だと思いました」

週刊誌、テレビを見た客が大手町、丸の内、銀座界隈から押し寄せてきたから、純ちゃんも従業員も気を抜く暇もなかった。立ったまま食事を済ませて、順番を待っている客の調髪をすることもしばしばだった。それでも先生たちは一切、手を抜かなかった。

客は敏感だ。適当にあしらわれたと思ったら、いくら美女がミニスカートをはいていたからといって我慢してまで通ってくることはなかったのである。