私が初めて支社長になったのは41歳のときだった。赴任先は大阪の茨木支社だったが、赴任する前に、当時の新井正明名誉会長からいくつかの言葉が書かれた紙を渡された。
新井氏は、私が入社した1973年当時、すでに社長だった。37年に東京帝国大学(現東京大学)を卒業後、住友本社(当時)に入社し、住友生命に配属されたが、ほどなく始まった日中戦争の召集を受けてしまう。陸軍の一兵卒として満州国に赴いたものの、ノモンハンの戦いで片足を失うという戦傷を負ってしまった。復員後は会社に戻り、ハンディを背負いながらも、大変な努力を積み重ねて社長、会長、名誉会長を歴任した人だ。
ノモンハンでの怪我で陸軍病院に入院中に、新井さんは歴代首相の指南役といわれた安岡正篤先生の本を読んで非常に感銘を受けたという。高じて会社勤めをしながら安岡先生の弟子になられた。『四書五経』など儒教の教えを中心とした中国古典に造詣が深く、みずからも書物を著すほどの勉強家だった。
そんな新井氏からいただいた紙には中国古典などから抜き出した故事成句が引用されていた。以前から、初めて支社長となった社員に渡すことにしているのだという。その中で非常に印象に残った言葉がある。「逆耳払心(ぎゃくじふっしん)」である。
これは中国古典『菜根譚』の中に登場する言葉である。『菜根譚』とは、「菜根」すなわち、野菜の根は筋が多いが、これをしっかりかみうるものだけが、物事の真の味を味わうことができるという意味からきている。17世紀の中国・明朝末期に儒教、道教、そして仏教禅宗の三教の教えを融合し、長い歴史における処世の知恵を集大成したエッセイ集とでもいうべき作品だ。