「つっけんどんな安倍さん」に食い込むまで

安倍晋三実録』では、私が安倍さんとの距離を縮めていくプロセスが「仕事の参考になった」という感想もいただきました。

官房副長官だった安倍さんの番記者になったのは2002年のことです。当時の安倍さんは「掴みどころのない政治家」という印象で、対峙してもこちらを一瞥するだけで多くを語りませんでした。

安倍晋三 内閣官房副長官時代(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)
安倍晋三 内閣官房副長官時代(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

他社の記者には親しげに話すのに、私にはつっけんどんに早口で話す。ご自宅に電話をかけ、昭恵夫人が取り次ごうとしても、「いないと言って!」と不機嫌そうな声が聞こえてくる。電話に出たときも「何?」と無愛想。1年近く距離が縮まらないことに焦って、上司に「担当を変えてほしい」と直訴したこともありました。

そんな私が安倍さんとの距離を縮めるきっかけになったのは、2003年に清和会(当時は森派)の議員が、政治資金規正法違反などで東京地検特捜部から捜査を受けたときでした。かつて法務省を担当していた経験から、今後の展開について私の“読み筋”を話すと「法務畑が得意分野だったんだね」と興味深そうに耳を傾けていました。

担当を外れても取材を続けた

それから安倍さんと会話が少しずつ増えるようになり、ご自宅の固定電話から、だんだん携帯電話を鳴らすようになりました。ただ素っ気ない態度は変わらず、電話をかけるたびに緊張していました。

第1次安倍内閣で安倍さんがあっけなく辞任し、雌伏の5年間では、人間的な側面や本音の部分に接する機会が増えました。自民党が下野し、民主党政権が誕生してから、私は安倍さんの担当を外れ、今度は菅直人副総理の担当として、政権を追いかけつつ、番記者のときと変わらず安倍さんに電話をかけ、ご自宅にもせっせと通いました。

安倍さんに限らず、権力の中枢へと階段を上っている政治家は、把握する機密情報が増え、多くの「番記者」が張り付くようになります。そのため口が堅くなり、取材のハードルは上がってしまうのがこの世界の常。一方、権力の座から降りると、ハードルが下がり、アクセスしやすくなる。

首相の間は、対面で会う機会が限られていましたが、第一次政権の退陣直後、珍しく、「サシ」で新橋の居酒屋に行きました。店長のサービスで、白魚の踊り食いが出てきたのを鮮明に覚えています。私が生きた白魚を箸でつまんで口に入れ、もぐもぐと食べると、安倍さんはびっくりしていました。店員さんに自分のお椀を渡して「かわいそうだから生け簀に戻してあげてください」と言ったときは、プリンスらしさを見たような気がしました。