活躍の背景にあった「子どもの不登校問題」

ゆたぼんと実質的なプロデューサーとみられる父・中村幸也さんが話題を集めてきた背景には、やはり「若者の不登校のロジックを割と正面から分かりやすく論じていたこと」にあります。

一つひとつの主張を見ていくと、必ずしも理路整然とした厚みのある話が展開されているわけではないのですが、他方で、世間一般では学校の先生のなり手が不足し、公教育の現場は荒廃しつつある現状があります。児童福祉の充実を目的として「こども家庭庁」の成立が決まるなど、子どもの教育の在り方を巡る議論は白熱しており、不登校も重要な課題です。

たとえば小中学校で高い学力を実現できている秋田県では、子どもの主体的な授業参加が可能になるアクティブラーニングの在り方のモデルケースになるなど、教育実践もエビデンスベースでどんどん変わってきています。秋田大学大学院の阿部昇教授は「秋田の小中学生の高い学力の理由は、『授業の最初にめあて・課題を決める。ひとりで考えた後、班や学級全体で意見交換をして、授業の最後に、まとめ・振り返りをする』というような児童・生徒主体の授業、『探究型授業』にある」と語っています。

もともと、ゆたぼんが不登校となった理由とされる「クラスメイトが教師の言うことを従順に聞いていて、ロボットみたい」という素朴な受け止めが事実であったならば、こうした探求型授業のような新しい授業の形態がもっと早く広まっていれば、ひょっとしたら学校に通い続けられたのかもしれません。

置いたランドセルの隣でひざを抱えて顔を伏せている小学生男児
写真=iStock.com/takasuu
※写真はイメージです

ゆたぼんが不登校について考えるところをYouTubeで自身の言葉として述べ、それが例え父親の仕込みであるのだとしても、小学生の言葉として学校の意義に対して正面から懸念と疑問を打ち出すことで得られた共感は、単なる見世物で終わらせてはならない一定の思想性を持っていたのだと言えます。

幼い子どもだから印象的だったが…

ゆたぼんが急速にオワコン化してきているのも、所詮は周りの大人に吹き込まれたことを語っているだけなのではないかという舞台装置の見え隠れによる興覚めと、子役芸能人と同様に「小学生のような子どもだから希少だったけど、中学3年にもなって身体も大きくなったのにいつまでも言うべきことなのかそれは」という見る側の変容もあるのではないかと思います。

自分のせがれどもを見ていても、中学生にもなって夜更かししてゲームしてて朝起きられず「中学に行きたくない」と布団の中で泣き叫ぶところを叩き起こして、口に茶とトーストぶち込んでかばんに弁当詰めて玄関から「いってらっしゃい」と蹴り出す日常を思い返すと、自分の生活そのものすぎてゆたぼんに共感どころではなくなっているのですよ。

ロボットかどうかなんてどうでも良くて、目の前の日常が大変過ぎて、次クソみたいな点を取ってきたら内申点とんでもないことになるぞという危機感のほうが先に立ちます。

小学生の頃は、生活の乱れは親の責任だし早く寝かせてやれなかったのは悪かったなと思うのですが、母親よりでかい図体して朝いつまでもゴロゴロしてんじゃねーよと感じるのは、育つ子どもの歳相応の対応になるものなのだと思うのです。