「どうする家康」では小牧長久手の戦いでパニックになる醜態
織田信雄は、天下統一目前にして、本能寺で散った織田信長の次男です。大河ドラマ「どうする家康」においても、信雄が登場していますが、信長の子とは思えないほどのダメっぷりを振りまいています。例えば、第31話「史上最大の決戦」では、羽柴秀吉により安土城から追放された信雄は、徳川家康に秀吉打倒を持ちかけます。
そして、いよいよ、秀吉方と信雄・家康連合軍は決戦ということになるのですが、信雄が恃みとしていた武将・池田恒興は調略され、秀吉方に付いてしまいます。犬山城を落とされ、窮地に陥る信雄と家康。そうした状況となっても、松本潤さん演じる家康は冷静に振る舞っていましたが、浜野謙太さんが演じる信雄は、パニックとなり、右往左往。ついには家康から「総大将が狼狽えるな。信長の息子じゃろ。しっかりせえ」と一喝される始末。家康に怒られた信雄は「はい」と返事し、おとなしくなりました。
こうした描写に象徴されるように、信雄はどちらかと言うと「愚将」「駄目坊ちゃん」としてのイメージで、時代劇・小説などで語られてきたように思います。では、実際の信雄は、どのような武将・大名だったのでしょうか。
幼名は「茶筅丸」、長兄・信忠の下で合戦にも参加
本題に入る前に、信雄の前半生を述べておくと、彼は、永禄元年(1558)に信長の次男として生まれました。母は、尾張国の豪族・生駒氏の娘と言われています。信雄の幼名は、茶筅丸。茶筅とは茶の湯でお茶をたてるときに使う道具のことですが、髪の毛を結ったら、茶筅のようになりそうだからという理由で、そうした幼名を付けられたとも言われています。永禄12年(1569)、父・信長は、伊勢の北畠具教・具房父子を攻めますが、和睦。和睦の条件は、次男・信雄を北畠具房の養子とすることでした(つまり、いずれは、信雄に北畠家の家督が譲られることになります)。
こうして、信雄は北畠氏を称することになるのです。さて、その後、信雄は信長や兄・信忠が行う数々の戦に参加しています。例えば、天正2年(1574)の伊勢長島攻め、天正5年(1577)の紀州征伐などがそうです。そうした戦で、信雄がヘマをやったとか、愚将ぶりを露呈させたという話は『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が著した信長の一代記)などには見えません。