秀吉もほめたほど能を舞うのがうまかった信雄
秀吉を怒らせた後、信雄は家康の取りなしもあり、秀吉の御伽衆(側近)となります。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、聚楽第(秀吉が京都に造営した城郭風邸宅)にて、能の興行があったことが記されていますが、そこで信雄も能を舞っているのです。その評価は「妙を得て、見るもの感に堪たり」というもの。つまり、能が上手であり、見る者を感動させたというのです。天下人・信長の子息らしく、信雄に文化的素養があったことが分かります。
ちなみに、家康はこの時「舟弁慶の義経」を演じたのだが、家康が太っていたことや、舞曲の節々に心を傾けていないこともあり「とても源義経には見えない」と人々は笑い合ったようです。秀吉は2人の舞いを見て「信雄のように家や国を失い、能ばかりうまくても、何の益があろうか」と言ったといいますが、能は信雄の方がうまかったことが、秀吉の発言からも理解できます。
大坂夏の陣後は、家康から大和国宇陀郡などを与えられ、寛永7年(1630)、死去することになるのです。信雄の生涯を振り返ると、確かに「若気の至り」と思われるような失敗もありました。しかし、リベンジには成功していますし、秀吉に歯向かうだけの度胸もあり、何より、戦国乱世をくぐり抜け、天寿を全うしているのです(失敗しても、復活もしています)。そうしたことを考えた時、信雄を単なる愚将、駄目坊ちゃんと見るのは、酷なように思いますし、信雄の「実像」ではないと私は考えています。