勝手に伊賀を攻め、信長に「無念の極み」と叱られる
しかし、天正7年(1579)9月、信雄のあるミスが『信長公記』には書かれているのです。信雄は、信長に無断で、伊賀国に兵を出し、伊賀衆を討とうとしたのでした。勝利したなら良かったものの、大敗。柘植三郎左衛門(柘植保重)という武士は討死してしまいます。信雄の勝手な行動を聞いた信長は、怒りの書状を我が子に送ります。「上方に出陣しないで、勝手に伊賀に兵を出すなどということはあってはならない」という怒りの手紙です。
今回、伊賀の地で大敗したそうだが、これは天の道理に反することで正に天罰と言えよう。その理由は、信雄が遠国へ遠征すれば兵達は疲れ果てるというので、つまり、隣国で合戦となれば遠国へ出兵せずに済むという考えに引きずられ、もっと厳しく言えば、若気の至りでこうなったということであろうか。
まことに残念なことだ。上方へ出陣すれば、それは天下のためになり、父への孝行、兄・信忠への思いやりともなるのだ。そして巡り巡って自分の功績になるではないか。
当然だが、今回、柘植保重およびその他の武将を討ち死にさせたのは言語道断、けしからぬことである。
いつまでもそのような考えなら、親子の縁を切ることになると思うがよい。なお、詳細はこの書状を持参する使者が伝えるであろう。
信長 織田信雄殿
太田牛一著『現代語訳 信長公記』(訳:中川太古/新人物文庫)
父・信長に「親子の縁を切る」とまで言われた
信長は信雄に「若気の余りに伊賀に出兵したのではないか」「無念の極み」と非難しています。この時、信雄21歳。確かに若いといえば若いです。伊賀国名張の住人から、信雄方に付くので伊賀に出兵してほしいと言われたとされますが、伊賀の惣国一揆を瓦解させ、伊賀を領国化しようという野心が、信雄を伊賀侵攻に走らせたのかもしれません。
信長の信雄への手紙を見ると「柘植保重をはじめとして、大事な武将たちを討死させたことは言語道断」と敗戦にも怒っているのですが、どちらかと言うと、上方へ出兵せずに、無断で伊賀に兵を出したことに怒っているように思えます。兄・信忠は、反旗を翻した摂津国の荒木村重の討伐に出陣していたのです。それはさておき、信雄の心がけ次第では「親子の縁を認めるわけにはいかない」とまで、父・信長に書状で言われたことは、信雄にとって衝撃だったでしょう。