豊臣秀吉とその跡継ぎを産んだ側室・淀殿(茶々)の年齢差は30歳以上あったという。作家の濱田浩一郎さんは「秀吉が女好きというのは有名だが、主君・信長の姪である茶々を側室にしたのは、子がいないので後継者を産んでほしいという期待と、数々の発言の記録から見える身分のコンプレックスからという複合的な理由ではないか」という――。
文禄5年(1596)に起きた慶長伏見地震のときの秀吉を描いた浮世絵
文禄5年(1596)に起きた慶長伏見地震のときの秀吉を描いた浮世絵 月岡芳年作「大日本名将鑑 豊臣秀吉」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

「どうする家康」も“茶々の覚醒”で盛り上がっている

大河ドラマ「どうする家康」で、成長した茶々(のちの淀殿)が登場し、話題を集めています。同ドラマにおいて、少女時代の茶々を演じるのは、白鳥玉季さん13歳。その演技に「目の演技、うまかったな」「茶々の演技にゾクッとしました」「もっと見たい」と絶賛の声が集まっているのです。成長した茶々を誰が演じるのか、白鳥さんの演技が凄かっただけに、大物女優を茶々役として出演させないと視聴者が納得しないのではとの声があがるほど。

淀君(茶々)の肖像画
淀君(茶々)の肖像画(画像=「傳 淀殿畫像」奈良県立美術館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

今後の展開が期待されるところですが、「秀吉が茶々を側室にした理由」との本題に入る前に、茶々とはどのような女性だったのか、基礎知識を確認しておきましょう。

茶々が生まれた正確な年は分かっていませんが、父は北近江(滋賀県北部)の戦国大名・浅井長政。母は、織田信長の妹・お市の方です。しかし、浅井長政は、天正元年(1573)、信長によって攻め滅ぼされてしまいます。長政の妻・お市と茶々を含む娘3人は、小谷城を出て、織田家のもとに引き取られることになります。その後、茶々にとって伯父に当たる信長は、本能寺の変(1582年)で自害。その後、お市の方は、織田重臣の柴田勝家に再嫁することになるのです。

16歳になるまでに両親が自刃したという壮絶な生い立ち

ところが、勝家は羽柴(豊臣)秀吉と対立、賤ヶ岳の合戦で敗れたことにより、居城・越前国北之庄城(福井県福井市)で自害して果てました。お市も、勝家と運命を共にします(1583年)。義父と母は亡くなりますが、茶々と妹たちは脱出し、諸説ありますが、秀吉の庇護下に置かれたと思われます。

茶々は一説によると、永禄10年(1567)生まれと言われますが、その説に従うとすると、この時、16歳。今で言うと、高校1年生の年齢です。その年齢に至るまでに、実父・実母、義父を争いのなかで失う経験をするという凄まじい体験をしたことになります。波瀾はらん万丈という言葉が月並みに聞こえてしまいます。

その後の茶々の運命を考えても、そうです。天正16年(1588)頃、茶々は秀吉の側室になるのです。自らの母と義父を直接的ではないにせよ、死に追いやった男の妻となったのでした。