戦国時代の女性が担っていた重要な役割
戦国時代の女性、とりわけ大名の親族や縁者の地位は、思われているほど低くはなかったともいえる。豊臣秀吉の側室で、秀吉の死後、大坂城(大阪市)における主導権を握った浅井茶々、いわゆる淀殿のような例もある。
たしかに、嫁ぎ先では生家を代表して、事実上の外交をしなければならないことも多かった。それなりのプレゼンスを認められていなければ務まらなかった。
とはいえ、それは嫁いだのちのこと。戦国大名や国衆の娘は、ほとんど例外なく政略結婚の駒だった。隣国との安全保障を維持するための、事実上の人質とされたのである。
家臣の娘であっても主君に無断で結婚することは許されなかった。戦国時代は、とくに領国の境目における離合集散が常で、女性の結婚を管理していなければ、家臣が娘を敵方と結ばせて離反することにもつながりかねなかった。
家康の生母である於大の方がいい例だろう。父の水野忠政は今川方の国衆だったため、同じ今川方であった家康の父、松平広忠のもとに娘の於大を嫁がせた。こうして家康が生まれたのだが、忠政から家督を継いだ於大の兄の水野信元が織田方についたため、今川氏との関係に配慮した広忠は、於大を離縁している。
このため、NHK大河ドラマ「どうする家康」のなかでは、松嶋菜々子演じる於大は家康の生母なのに、リリー・フランキー演じる久松長家(俊勝)の妻だったのである。
女性に人権はなかった
また、戦国大名や国衆が謀反を起こしたときは、その妻(さらには子供)も残酷な処刑の対象になった。たとえば、天正6年(1578)10月に突然、織田信長に反旗を翻した荒木村重の場合。
村重が居城の有岡城(兵庫県伊丹市)を脱出すると、信長はそこに残されていた女房衆を皆殺しにしており、『信長公記』には「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて感涙押さえ難し」と記されている。続けて、村重の一族と重臣の家族36人も、京都市中を引き回されたうえ、六条河原で斬首された。
あるいは、すでに関白になっていた豊臣秀吉でさえ、家康を臣従させるために、妹の朝日姫をわざわざ離縁させ、家康のもとに正室として嫁がせた(その時点ではすでに独り身だったという説もある)。さらには、秀吉に危害を加えられるのを恐れる家康を上洛させるために、自分の生母の大政所までも家康のもとに人質として送った。
このように、戦国大名や国衆の子女には(母親をも含めて)、今日でいう人権はまったくなかったといっていい。
そして信長も、先述した浅井茶々(淀殿)の母である実妹の市を、政略結婚の道具に使った。