接着剤としてのお市の方
周知のとおり市は最初、近江(滋賀県)浅井長政のもとに嫁いだ。その時期については永禄2年(1559)から11年(1568)まで諸説あり、いまも定まっていないが、宮島敬一氏は永禄6年(1563)を下らない時期だと結論づけている(『浅井氏三代』)。
信長は永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で今川義元を討ったのち、美濃(岐阜県南部)の斎藤氏と敵対していた。その斎藤氏は同年秋ごろ、浅井氏と敵対する近江の六角氏と同盟を結んだ。その結果、信長と浅井氏がともに斎藤氏と六角氏の双方を敵に回すかたちになった。だから金子拓氏がいうように、「敵の敵は味方のたとえのとおり、これによって浅井氏・織田氏は同盟を結んだのではないか」と考えられる(『織田信長 不器用すぎた天下人』)。
要するに、市は織田・浅井同盟の「接着剤」として使われたのである。むろん、その際に市の意思は考慮されず、市の側に、こうして「接着剤」となることを拒む余地はまったくなかった。
そして、これも周知のとおり、長政が信長に反旗を翻したのち、天正元年(1573)に小谷城(滋賀県長浜市)を落とされて父の久政とともに自刃して果てた際、茶々、初、江の3人の娘とともに救出され、織田家に引き取られている。
秀吉と勝家が衝突したワケ
さて、天正10年(1582)6月2日、兄の信長が明智光秀の謀反に遭い、京都の本能寺で横死すると、市の運命はふたたび転変することになる。
「どうする家康」の第30話「新たなる覇者」(8月6日放送)でも、市のその後の運命が描かれる。ドラマでは彼女の運命がどう描かれるのだろうか。
6月27日に尾張(愛知県西部)の清洲城(清須市)で、いわゆる清洲会議が開かれた。これは平山優氏によれば、「信長の後継者(家督)は誰かということと、それを支えつつ、織田領国の支配・管理をどのように行うかという領国分掌の二つが重要な主題」で、「会議を主導したのは、いうまでもなく山崎の合戦で明智光秀を撃破し、亡君信長の仇を報じた羽柴秀吉であった」(『天正壬午の乱』)。
その結果、信長とともに死んだ嫡男、信忠の遺児でまだ3歳の三法師を後継に据え、それまでは重臣の合議で支配・管理を続けることになった。
ちなみに、秀吉と並ぶ織田家の重臣であった柴田勝家は会議で、「織田(神戸)信孝(信長三男)を推したが、直系の子孫が家督を相続するのが順当とする秀吉に押し切られてしまった」(平山氏同著)
そして押し切られた勝家に、市が嫁ぐことが決まったのである。