懺悔の気持ち

現在山田さんは、徐々にホルモン療法の治療が限界になり、薬が効かなくなってきている。腫瘍マーカーも上昇中で、医師は抗がん剤治療を勧めている。

「介護にやりがいや喜びがあるとしたら、“母との絆は強くなった”ということだと思います。はっきり言って、介護はつらいことばかりです。やらなくて良い立場に自分を置けなかったことを反省しているくらいですから。でも、母のうれしそうな顔を見れたときには私もうれしかった。それくらいですかね……。きょうだいがいるのでしたら、絶対に独りで介護を引き受けてはいけないと思います」

兄は施設に一度も訪れることはなく、山田さんがいくら勧めても、母親と会うことはしなかった。もちろん葬儀には出たが、亡くなったあと、施設に駆けつけることもなかった。

「私は、兄はお金を出すことで、責任を果たしたと思っているのだと解釈しています」

驚くほどさっぱりした兄と比べ、山田さんはいまだに母親への懺悔の気持ちに苦しんでいる。

「母を口汚く罵ってしまった後は、どうしようもなく悲しくなりました。トイレや自分のベッドで、蚊がなくような声で泣いている母。私は何度も、死のうと思いました。母が悪いのではなく、認知症が悪いのに、泣くほど母をいじめ抜いている自分をどうして許せるでしょうか……」

しかし、そんなとき、山田さんのつらい気持ちを和らげてくれたのは、母親自身だった。

「母は数時間もすると、誰に何を言われたか、どんな状況で言われたかを忘れてしまうんですね。だから、『どうしたんだよ、元気ねえじゃ? 元気出さなきゃだめだよ』とか、慰めてくれるんです。で、私がしたことを謝ると『え? そんなことした?』と驚かれて、すぐに次の事件が起きるので、とりあえず、落ち込みも和らぐんです。それでも、私が母にやってしまったことや、あのトイレの泣き声は、私の心から消えることはありません。一生、私が死ぬまでつらい思いは残ると思います。なので残念ながら、10年ほど介護を経験しましたが、介護のつらさを乗り越える方法も工夫も、私にはわかりません」

もしかしたら山田さんにとって、いつしか母親の介護をすることが生きがいになっていたのかもしれない。その生きがいを失って、今は胸の中にぽっかりと穴が空いたようになっているのではないか。

「母が亡くなって、重い荷物をおろしたようで、でも、胸の奥がいつもモヤモヤし続けています。なるべく、考えないようにしていますが、自分を振り返って、結局人間なんて、こんなに冷たいんだと思ったりしています」

そして自分を責め続けるあまり、きちんと母親の死を受け止められていないのではないか。

気持ちや感じていることを表に出せず、心にフタをして抑え込んでしまった状態を、英語で「グリーフ(grief)」と言い、日本では主に「悲嘆」と訳されている。

大切な人との死別を経験すると、人は喪失感に苛まれ、不安定な「グリーフ」の状態になる。グリーフを適切にケアしないと、不眠や記憶障害、情緒不安定、自殺企図などを引き起こすケースが少なくない。山田さんはこの「グリーフ」の状態を、適切にケアできていないのではないか。

また、山田さんの胸の奥がモヤモヤし続けているのは、おそらく「納得のプロセス」ができていなかったからだろう。

筆者はこれまで、50人以上の介護当事者に話を聞いてきたが、認知症を患った家族を介護している人の多くが在宅では限界を迎える。そして、認知症を患った人のほとんどが施設に入り、必ず「帰りたい」と口にする。

レースのカーテンを握りしめている、浴衣着用の女性の手元
写真=iStock.com/liebre
※写真はイメージです

筆者は、施設に入所中の認知症患者の「帰りたい」という言葉の多くは、認知症という病気が言わせているのではないかと考えている。

なぜなら、山田さんの母親もそうだが、認知症になる前や病状が進む前の多くの家族は、“自分の介護のせいで、大切な家族を苦しめたくない”と思っているからだ。山田さんの母親も、まだそこまで症状が重くなかった頃は、「介護の苦労をかけたくない」「最後はホームに入所したい」と言っていた。しかし、認知症の症状が重くなるにつれ、自分本位になり、口癖のように「帰りたい」と言い、人によっては暴れたり、脱走したりするようになってしまう。

また、山田さんの場合、妻に遠慮して、母親の介護にリミッターをかけてしまったことも、「納得のプロセス」がうまくいかなかった理由の一つだろう。自分が思う限界まで介護ができていれば、現在に至るまで胸の奥がモヤモヤし続けていることもなかったかもしれない。

しかし、自分の健康を失ってまで、母親を介護するのは正気の沙汰ではない。山田さんが健康を失えば、母親はどうなるのか。当然伴侶である妻にもそのしわ寄せは行く。その先の息子たちにも及ぶ可能性もある。そこまで考えて介護に挑んでいたなら、とっくに納得できるレベルは超えていたのではないか。

現在も山田さんは、母親への懺悔の気持ちに苛まれ、不眠が続いていると言う。

山田さんはまず、適切な「グリーフ」のケア行うべきだろう。1人でできない場合は、グリーフケアの専門機関に相談するのも良い。心療内科でも良いかもしれない。母親を失った悲嘆を適切にケアすることができれば、胸のモヤモヤはずいぶん晴れるに違いない。

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