コロナ禍の死
2022年8月。約8カ月ぶりに母親に会いに行ったが、山田さんはもはや完全に他人だった。
「母がかわいそうで、3日くらい沈んでおりましたが、もう自分にできることは何もなく、懺悔の暗い気持ちを心の奥に押し込んでいるような状態でした。私はコロナを言い訳に、母を見棄てていました。そして、明るく病気と向き合って生きていました」
山田さんは、自虐的にそう言う一方で、相変わらず不眠に悩まされていた。
「母を施設に入れるまでの数年間を思い出すたび、懐かしく、母を愛おしく思うのですが、無理やり入所させて今があるのだと思うと、思い出さないようにしているのですが、思い出してしまいます。だから、眠れないのです」
母親は93歳になった。
山田さんは友人知人と飲みに行き、彼らがすでに両親をこの数年で見送っていることを耳にした。
9月下旬。施設から、「もう3日ほど、食べることができなくなっています」と連絡があった。その数日後、「相変わらずで……水も飲み込めないようです。会いに来てあげてください」と連絡があった。
妻と面会に行くと、母親は車椅子に座っていた。ただそこに座り、黙ったまま、目を閉じたり開いたりしているだけ。何を話しかけても反応はなく、ただマスクの向こうで弱々しい息遣いが聞こえるだけ。
通い介護していた頃、母親が「わたしが死ぬときはこの歌で送ってくれや!」と言っていた曲を2回ほど流したが、反応はない。やがて、妻がボロボロ泣き出した。
「妻に泣かれて、『泣けばいいというものではない』と冷淡に思っている自分がいました。私は妻に遠慮して、100%の介護はできませんでした。親孝行のリミッターをかけてしまっていたのです。それでも妻は、母の介護について、よくやってくれたと思います。母を旅行に連れて行くことに賛成して、母の2人の姉妹も連れて旅行も同行してくれて、年寄3人と一緒にお風呂にも入ってくれました。非の打ちどころがない妻であり、嫁だったのではないでしょうか。
ただ、母がまだグループホームに入る前、私は妻への遠慮がありました。妻にしてみれば、『そこまでしなくて良いのでは?』と思うことも多々あり、それは私の健康面を思ってのことだとは承知していましたが、私からすると、『少し冷たいな』と思うこともありました。けれどそれは仕方ありません。妻にしてみれば姑ですから、肉親ではないですし……」
その2日後、朝、スマホの音で目が覚めた。施設から電話だった。「すぐ来てほしい」と言う。山田さんは察した。
急いで着替えていると、またスマホが鳴った。どうやら間に合わなかったようだ。職員によると、少し手を動かしたくらいで、苦しまずに逝ったという。駆けつけた山田さんが受け取った死亡診断書には、「老衰」と書かれていた。