敗走した道は後年、「白骨街道」と呼ばれた
インパール作戦は、英国陸軍の拠点であるインド東北部の州都インパールをビルマ側から攻略し、中華民国への支援物資の供給ルート(蒋介石を援助する、いわゆる“援蒋ルート”)を分断しようとするものだが、食糧の確保も武器装備も不十分なまま470キロを行軍させようとする無謀極まりないものであった。
この作戦を指揮した牟田口廉也中将の言葉に、
「元来日本人は草食である」
という迷言がある。戦場にはいくらでも草が生えているというわけだ。
そして現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧として利用するという作戦が立案された。かのチンギス・ハーンが家畜を連れ、中央アジアを征服していった故事にならったものだ。
だが前方に広がるのはビルマ・インド国境の峻険な山々や沼地である。一面の草原である中央アジアとは違う。そんな戦場で、のんびり牛など引いていけるはずもない。案の定、渡河の際、連れてきていた半数が流れにのまれてしまった。
これは数ある愚策の一端にすぎない。インパール作戦の悲惨は、彼らが敗走した道が後年、“白骨街道”と呼ばれたことからもわかるだろう。
生きながら食われ、やがて息絶えて白骨と化していく
着衣はぼろぼろで髭も髪も伸び放題。全身垢まみれで、かろうじて目玉で誰か判別がつく程度である。着替える服などないからシラミが湧く。体中かゆくてたまらず集中力が削がれる。
負傷兵の傷口には必ずと言っていいほどウジが湧いた。ハエが止まったかと思うと、もう次の瞬間には卵を産みつけ、そこからウジがはい出てくる。取ろうとしても傷口の奥まで入っているから取りにくい。だが膿をきれいにしてくれるという一面もあったのだ。食べるものがないから、そのウジ虫をとって食べた者もいた。貴重なタンパク源だった。
兵たちは体力を奪われ、飢餓に苦しみながらばたばたと斃れていく。
ビルマには大型のウミワシやタカが多い。人を襲うことなど滅多にないこれらの猛禽類も、瀕死の兵士となれば話は別だ。弱ってくると容赦なく襲ってくる。酸鼻の極みと言うべきは、外に出ている顔、とりわけ目玉が狙われることだ。目が見えなくなると一巻の終わり。頬がつつかれて生きながら食われ、やがて息絶えて白骨と化していく。これこそが“白骨街道”のいわれだった。
敵兵に殺された数より、餓死・自決のほうがはるかに多い
退却戦の時期ともなると、担架に乗せられた隊員、松葉杖をつく兵に自決命令が出された。銃を取り上げられ、手榴弾が手渡される。
「いや、まだ動けます! 大丈夫です!」
そう必死に言い張る者は、古参兵によって背後から撃たれた。
ジャングルのあちこちで銃声が響き、手榴弾の破裂音が聞こえた。音を聞けば日本軍のものだとすぐわかる。耳をふさいでも否応なくその音は周囲にこだます。やがてみな、なんとも思わなくなっていった。
敵兵に殺された数より、餓死したり自決させられた兵士の方がはるかに多かった。それがインパール作戦だったのだ。彼が後に何度も悪夢に見た“人の橋”を歩いて湿地帯を渡ったのは、まさにこの頃のことであった。
山中のけもの道をさまよいながら、ようやく目的地であるタイ国境付近に到達した。気がつけば彼の部隊の55名はわずか3名となっていた。