敗走した道は後年、「白骨街道」と呼ばれた

インパール作戦は、英国陸軍の拠点であるインド東北部の州都インパールをビルマ側から攻略し、中華民国への支援物資の供給ルート(蒋介石しょうかいせきを援助する、いわゆる“援蒋えんしょうルート”)を分断しようとするものだが、食糧の確保も武器装備も不十分なまま470キロを行軍させようとする無謀極まりないものであった。

牟田口廉也、大日本帝国陸軍中将
牟田口廉也、大日本帝国陸軍中将(写真=大日本帝国陸軍/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

この作戦を指揮した牟田口廉也むたぐち れんや中将の言葉に、

「元来日本人は草食である」

という迷言がある。戦場にはいくらでも草が生えているというわけだ。

そして現地で牛を調達し、荷物を運ばせた後に食糧として利用するという作戦が立案された。かのチンギス・ハーンが家畜を連れ、中央アジアを征服していった故事にならったものだ。

だが前方に広がるのはビルマ・インド国境の峻険な山々や沼地である。一面の草原である中央アジアとは違う。そんな戦場で、のんびり牛など引いていけるはずもない。案の定、渡河の際、連れてきていた半数が流れにのまれてしまった。

これは数ある愚策の一端にすぎない。インパール作戦の悲惨は、彼らが敗走した道が後年、“白骨街道”と呼ばれたことからもわかるだろう。

生きながら食われ、やがて息絶えて白骨と化していく

着衣はぼろぼろで髭も髪も伸び放題。全身垢まみれで、かろうじて目玉で誰か判別がつく程度である。着替える服などないからシラミが湧く。体中かゆくてたまらず集中力が削がれる。

負傷兵の傷口には必ずと言っていいほどウジが湧いた。ハエが止まったかと思うと、もう次の瞬間には卵を産みつけ、そこからウジがはい出てくる。取ろうとしても傷口の奥まで入っているから取りにくい。だが膿をきれいにしてくれるという一面もあったのだ。食べるものがないから、そのウジ虫をとって食べた者もいた。貴重なタンパク源だった。

兵たちは体力を奪われ、飢餓に苦しみながらばたばたと斃れていく。

ビルマには大型のウミワシやタカが多い。人を襲うことなど滅多にないこれらの猛禽類もうきんるいも、瀕死の兵士となれば話は別だ。弱ってくると容赦なく襲ってくる。酸鼻さんびの極みと言うべきは、外に出ている顔、とりわけ目玉が狙われることだ。目が見えなくなると一巻の終わり。頬がつつかれて生きながら食われ、やがて息絶えて白骨と化していく。これこそが“白骨街道”のいわれだった。

敵兵に殺された数より、餓死・自決のほうがはるかに多い

退却戦の時期ともなると、担架たんかに乗せられた隊員、松葉杖をつく兵に自決命令が出された。銃を取り上げられ、手榴弾が手渡される。

「いや、まだ動けます! 大丈夫です!」

そう必死に言い張る者は、古参兵によって背後から撃たれた。

ジャングルのあちこちで銃声が響き、手榴弾の破裂音が聞こえた。音を聞けば日本軍のものだとすぐわかる。耳をふさいでも否応なくその音は周囲にこだます。やがてみな、なんとも思わなくなっていった。

敵兵に殺された数より、餓死したり自決させられた兵士の方がはるかに多かった。それがインパール作戦だったのだ。彼が後に何度も悪夢に見た“人の橋”を歩いて湿地帯を渡ったのは、まさにこの頃のことであった。

山中のけもの道をさまよいながら、ようやく目的地であるタイ国境付近に到達した。気がつけば彼の部隊の55名はわずか3名となっていた。