出迎えの人の中に家族の姿を見つける
帰国して2日目(6月14日)の夕刻に浦賀を出発した幸一は、品川駅で東海道線の貨物列車に乗り込み、同郷の復員兵たちとともに家族の待つ京都へと向かった。
彼らとは、そこではなればなれになる。誰言うとはなしに、京都駅に着いたら東山の護国神社(現在の京都霊山護国神社)にお参りしようという話になった。
6月15日午前4時前、京都駅に到着。
プラットフォームに降りたつと同時に、階級の上だった者が、
「整列っ!」
と声をかけ、隊列を組んだ。護国神社まで行進しようというのである。
ところが、ここで予期せぬことが起こった。GHQの憲兵が血相を変えて飛んできたのだ。
「今すぐ解散せよ! 徒党を組んではならん!」
有無を言わせず、その場で解散させられた。
日の丸の旗を振られて送り出され、命をかけて国のために戦ってきたにもかかわらず、帰ってきたらこのありさまだ。情けなくて涙も出ない。
だが、それをしばし忘れさせてくれる瞬間がやってきた。出迎えの人の中に家族の姿を見つけたのだ。父粂次郎と妹富佐子と叔父が出迎えに来てくれていた。
感動の瞬間である。
第2回目の誕生日は「戦地から生還した、その日」
だが彼らは喜びあいながらも内心、幸一の変貌ぶりに驚いていた。もともとギリシャの胸像のように彫りの深い顔をしていたが、頬肉が削げ落ち、目が妙にギラギラしている。
家に向かう道すがら、幸一はずっと押し黙っていたが、突然、妙なことを口走った。
「今にビルを立ててやる!」
「はぁ?」
(お兄ちゃん、頭おかしなって帰ってきはったんとちがうか?)
富佐子は真面目に心配になったという。
戦争に負け、肩身の狭いことこの上ない。このままで終わってなるものかというやるせない思いが、そんな言葉となって口を衝いて出たのだが、富佐子は幸一の苦しい胸の内など知るよしもなかった。
自宅で彼の帰りを待っていたのが母信である。
「幸一!」
もう玄関で音がした瞬間から信の顔は涙で濡れている。彼女は、最愛の息子を今度こそどこにも行かせないとばかりにひしと抱きしめた。それは彼女にとって人生最良の瞬間だった。
幸一は後年、深い感動とともに、この日のことを振り返ってこう書いている。
〈私には誕生日が二回ある。その第1回目は、この世に生を受けた大正9年9月17日。そして第2回目の誕生日は昭和21年6月15日、二度と京都の土が踏めないだろうと覚悟していたのが、どこで、どう神様がお目こぼし下さったのか、戦地から生還した、その日である〉(『塚本幸一 わが青春譜』塚本幸一著)