容易にはわかり合えない宗教対立のようなもの

地域からの評判が落ちれば進路に影響するかもしれない。学校内の治安が悪くなれば、大多数の生徒が不利益を被る。制服くらい着こなせないと、就職したときに困るのではないか。妥当性はともかくとして、厳しい校則も「生徒のため」であるという、この感覚が現場での校則議論をややこしくするのです。

少なくない教師は「生徒のため」に校則はもっと緩くてもよいと考えています。一方で、校則を厳しくしなければならないと思う教師も、「生徒のため」を考えているのです。両者の「生徒のため」は、容易にはわかり合えない宗教対立のようなものです。

校則問題について社会に向かって発信することは、校則を大事にする半数の教師を敵に回すことに繋がる、そんなふうに私は考えていました。働き方改革について社会に声を上げてきた私でしたが、校則問題はアンタッチャブルな(触れてはならない)問題と考え、教師としての自分を守ることを優先して及び腰になっていたのです。

やけに学校の雰囲気がよくなったワケ

そんな私が「制服と私服の選択制」という言葉で、校則見直しを国や社会に訴えるようになったきっかけは、コロナ禍で急速に校則の緩和が進んだことでした。

コロナ禍が始まったばかりの2020年5月。全国一斉休校が終わり、学校を再開するにあたって、自身が勤める岐阜県の県教育委員会からひとつの通知が出されました。

「学校再開ガイドライン」です。

「登校時の制服に付着したウイルスを洗濯によって除去する場合、制服は多数回の洗濯には適さないことから、家庭での洗濯が比較的容易な服装(学校指定の体操服やトレーニングウエア等)での通学を可能とすること」

(岐阜県 学校における新型コロナウィルス感染症対応〈学校再開ガイドライン〉、2020年5月15日)

私の勤務校でもこの通知に従い、制服の着用義務を撤廃しました。

学校はあっという間にカラフルになりました。制服を着てくる生徒は半数ほどで、残りの半数はジャージや、色とりどりのTシャツやトレーナーで登校するようになりました。

学校再開からしばらくして、「やけに学校の雰囲気がよくなったなあ」と感じていたのですが……。なぜでしょうか。

それは、全ての生徒が「自分で選んだ服装」をして来ているからだと気づきました。そこには、制服着用率が100%から50%に半減したという事実以上に、本質的な変化がありました。

制服を着たければ着る。着たくなければ着ない。何を着るかは自分で考える。そしてお互いの選択を否定しない。それは「互いの自由を尊重する」ということであり、とても教育的である気がしました。