ハワイで放浪後、空港からそのまま銀座の街へ
杏子さんはこれまでに様々な職業を経験してきた。19歳の時に福岡・中洲の高級クラブでホステスとしてデビュー。24歳になると、雇われママとして店の切り盛りを任されるようになった。その翌年には小規模店舗の居抜き物件を譲り受けてオーナーママとして独立を果たした。
しかし、店の経営やキャストたちとの人間関係に疲れて、3年余りで店を売却。その後は過去に何度か社員旅行などで訪れて、その魅力にすっかり取り憑かれていたというハワイへ、放浪の旅に出掛けた。
所有していた自家用車やブランド品を現金化することで確保した数百万円を切り崩していきながら、ハワイでの暮らしを満喫した。コンドミニアムに居を構え、プールや海で泳いだり、食事や買い物に出掛けたり。文字通り自由気ままな日々を過ごした。
ところが、数カ月が経過すると、蓄えが底をつき始めた。オーバーステイ(在留許可期間の超過)の状態だったこともあり、やむなく日本に帰国することに。降り立った空港からスーツケース1つで向かった先は東京・銀座。高級クラブにスカウトされることが目的だった。
「お化粧をバッチリして小綺麗な服を着て銀座の街を歩いていれば、スカウトマンに声を掛けてもらえる自信はあった」と杏子さん。目論見通り、ホステスの職を手にした杏子さんは、それから約4年間、銀座の夜の街で働いた。
昼間の仕事に就いた後も、銀座の人脈に助けられた
銀座でもその美貌と会話術を武器に多くの利用客に支持された。ただ、銀座で上まで登り詰めるつもりはなかった。銀座は中洲よりもはるかに粘度の高いドロドロとした人間関係が渦巻いていると感じたからだ。
30代に入ってからは昼間の仕事に転じた。店舗開発や健康器具の販売、保険外交員といった職に就いた。夜の世界で培った人脈と持ち前の営業力で常にトップクラスの成績を上げることができたという。
もっとも、雇われの身のままで終わるつもりはなかった。いつかは独立するつもりだった。とはいえ、具体的なビジネスプランがあるわけでもない。今後の方向性に迷っていたところ、“接待を伴う飲食店”で働いていた頃の常連客の1人だった先生(=知人男性)に、「軽トラの仕事に挑戦してみないか」と声を掛けられた。
当初は別の仕事と掛け持ちで、軽トラのシフトに入るのは週1~2回程度にすぎなかった。しかし、いまでは早朝に3時間、深夜に2時間の計5時間の乗務を週6日ペースで続けている。近いうちに昼間の仕事からは完全に手を引き、軽トラビジネス1本に絞るつもりだという。