『平清盛』の視聴率が悪いのはなぜか
話はそれますが、現在の日本におけるターゲット設定の難しさを象徴するできごとが、大河ドラマ『平清盛』の「低迷」だと私は感じています。
大河ドラマは、緒方拳が主演していた『太閤記』のころから、「企業戦士と、それを内助の功でささえる妻」の理想像を提示することで人気を得てきました。けれども『平清盛』に登場する清盛は、若年のころはゴロツキ同様のうすぎたない顔をして、海賊まがいのことをやっています。平氏の棟梁になってからも、「大手企業に勤める辣腕家」というより、「ベンチャー企業のリーダー」といったおもむきです。そして、日本の企業人や公務員の多くは、ベンチャー起業家に生理的な反感をもっています(ホリエモンのあつかわれ方をおもい起こしてください)。
その清盛の宿敵・後白河院は、若いころには今様――いまでいったらヒップホップといった感じでしょうか――にのめりこんでいたという異色の帝王です。玉座にのぼったのちは恐るべき策謀家となり、何度も幽閉されながら、権力への執着を亡くなるまで捨てませんでした。
日本史上の有名人物だけに、これまでも多くの俳優によって後白河は演じられてきました。そこで確立された標準的なイメージは、
「若いころは芸術青年で、中年以降に老獪な政治家に変貌した人物」
というものです。こういう人間なら、ふつうのサラリーマンにも理解できます。学生時代、芸術にのめりこみ反権力を掲げていた人が、中年になって出世欲いっぱいの陰謀家にかわる、というのは、ありふれた話だからです。
ところが、『平清盛』の後白河は、帝となったのちも突然キレたり笑いだしたり、えたいが知れません。もの書きや学者には、こういうタイプがときどきいますが、ふつうの企業ではまずやとってもらえないでしょう。
ほかの主要人物たちも、狂気とすれすれの個性派ぞろいで、サラリーマンなどつとまりそうにありません。これまでの大河ドラマとおなじく、「企業戦士と、それを内助の功でささえる妻」の姿がしめされると期待していた人びとは、『平清盛』に裏ぎられるおもいがしたはずです。このドラマが、低視聴率に喘いでいるのもうなづけます。
反面、この作品には、近年の大河ドラマにはめずらしいほど熱狂的なファンもいます。その中核にいるのは、専門職など、サラリーマンとはちがう生業をもっている男性、それから、男女雇用機会均等法の施行後に社会に出て、キャリアをきずいている女性です。企業戦士の論理も、それを内助の功でささえる妻のモラルとも縁どおい人間から見ると、このドラマはたいへん魅力的なわけです。
たいていの「低視聴率番組」には、じぶんは好きで見ていたとしても、「よっぽど変わった趣味の人にしかウケないだろうなあ」とおもわせる部分があります。反対に、ごく限られた範囲のなかであれ、熱狂的なファンのいる作品には、「ツウにはたまらないだろう」という面をふつうは見いだせます。
しかし、『平清盛』にかんしては、支持する人と支持しない人それぞれが、じぶんと反対の感想をもっている人を、まったく理解できないようです。日本人の嗜好や思想信条には、ほんとうに共通の基盤が存在しなくなったのだなと、このドラマについて誰かと話すごとに痛感します。