純文学作家に「病んでるヒト」が多いわけ

私はたいてい、授業の最後に、その日に話したことに対する意見や感想を書いてもらいます。先日、そのリアクションペーパーに、こんな質問が記されていました。

「どうして日本の近現代作家には、こんなにも『病んでるヒト』が多いのですか。漱石は被害妄想、鴎外は現地妻をつくって遺棄、谷崎はほんもののドМ、川端はロリコン、三島は軍事コスプレがとまらなくなって死亡」

たしかに純文学作家(=「芸術としての小説」の書き手)といえば、「病んでるヒト」ばかりです。これは、日本にかぎった話ではありません。アメリカの作家で、村上春樹が訳している人だけを見ても、フィッツジェラルドとカーヴァーはアル中、サリンジャーは不登校児がそのままおとなになった引きこもり、カポーティは薬物依存症です。ドイツやフランスの作家も状況はかわりません。

純文学作家に「病んでるヒト」が多いのは、近代社会のなかで芸術がになわされた役割のためです。近代以前の社会では、「この世を超えたすごいもの」は、宗教によって人びとのもとにもたらされていました。ところが、宗教の権威が科学によっておびやかされるようになると、「この世を超えたすごいもの」は、おもに芸術をとおして体験されるようになります。その結果、芸術をつくりだす人間も、「ふつうの人びと」からかけはなれたキャラクター――「病んでるヒト」――であることを、もとめられるようになったのです。

おなじ小説家といっても、会社人間御用達の司馬遼太郎、松本清張、山崎豊子といった人たちには、病んでるイメージはありません。この種の作家に期待されるのは、

「この世を超えたすごいものを見せること」

ではなく、

「社会人のためのサバイバル術の指南役」

だからでしょう。

社会が作家になにを期待するかによって、「どういう人が作家になるか」や、「作家になった人間がどのようにふるまいがちであるか」は、ちがってくるのです。