授賞式でTシャツを着る意味
社会人むけ講座で春樹についてお話したときのことです。私より十歳ぐらい齢上の女性から、こんな質問を受けました。
「村上春樹って、これまでぜんぜん、嫌な人とはおもっていなかったんです。でも、カタルーニャ国際賞でしたっけ、あのときの受賞スピーチで、反原発演説をしているのを聴いて、微妙に反感をおぼえました。
宮崎駿とか、ほかのクリエーターは、原発事故に意見があるなら、すぐにメッセージを出したじゃないですか。それなのに春樹さんは、何ヶ月も経ってから、イキナリあんな物議をかもすようなことを、しかもわざわざ外国でいうなんて。ほんとうに被災地のことをおもっているのだろうかと、うたがう気持になりました。
それに、真摯に自分の考えを訴えているのなら、かっこうもきちんとすべきだろうって。国際的な賞の授賞式なんだから、ネクタイ締めればいいのに、あのときの春樹さん、ジャケットは着てたけど下はTシャツで、スニーカーかなんか履いてたじゃないですか。私もどちらかといえば、脱原発派なんですけど、あの場でああいうかっこうでそれを主張するってのは、いったいどういうつもりなんでしょうか?」
春樹に対する、この女性とおなじような不平を、実は何人もの口から私は聴きました。脱原発演説そのものの内容はべつとして、海外で、あまりにカジュアルな服装であのような発言をしたことに、納得できないというわけです。
春樹は、2006年にフランツ・カフカ賞を受けたときも、2009年にエルサレム賞をあたえられたときも、ネクタイを締めて授賞式にのぞんでいました。
ヨーロッパでは、作家やジャーナリストや大学教員は、公式な席でもわざとカジュアルな服装をすることで、「自由人」であることをアピールする風潮があります。たとえば、経済政策にかんするシンポジウムも開催すると、官庁や企業から派遣されてきた報告者は、スーツにネクタイで登壇します。これに対し、学者やジャーナリストを生業とするパネリストは、柄物のシャツを着てネクタイを締めず、ジャケットもはおらないといういでたちだったりします。
情報収集能力にすぐれた春樹のことです。授賞式列席者の中核をなしている「ヨーロッパのインテリ」が、どういうよそおいをすれば好感をおぼえるか、しっかり把握していたにちがいありません。国際的な賞を受けるのも3度目ということで、
「何はともあれ、きちんとしたかっこうをしなくては」
というプレッシャーからも、解放されていたことでしょう。
カタローニャ国際賞授賞式に列席していた人びとにとって、春樹のよそおいは、不快なものではなかったはずです。しかし、現地の「ヨーロッパのインテリ」と服飾意識を共有していない大半の日本人にとって、あのときの春樹の服装は、共感もできないものだったわけです。