「だれもが知っている有名なもの」が生まれない時代
社会的な重要なことがらについて、みずからの見解を明確にしなければならない――そうなった場合に躓きの石となるのは、海外と国内の「文脈」のちがいだけではありません。
15年ほど前までは、「だれもが知っている有名なもの」や「だれもが一致して達成すべきと考える社会的目標」が、日本の国内では共有されていました。たとえば、アンチもふくめて、日本人の大多数が、プロ野球の巨人軍に関心をもっていました。また、与党の支持者も野党のシンパも、「日本人を二度と戦場におくりたくない」と考えている点は、変わりませんでした。アメリカと仲よくするのと距離をおくのとどちらが戦争のリスクを減らせるか、「目標にいたる過程」について判断のちがいがあっただけです。
「有名なもの」や「社会的な目標」が共有されやすかった理由は、おそらくひとつではありません。けれども、テレビがかつては一家に一台しかなかったことの影響は、見のがせないとおもいます。
子どものころ、どこがいいのかまったくわからないオバさん演歌歌手に、うっとり見とれている母親の姿を、私は何度も見かけました。日本と直接かかわりのない戦争のニュースに、父親が眉をしかめていたのもおぼえています。そうした体験を通じて、
「じぶんには関心がないが、世間的には有名だったり重要だったりするもの」
が存在することを、私はまなんだ気がします。
現在では、じぶん専用のテレビ受像機をたいていの人間がもっています。個人的に関心のないものを、否応なしに目にする機会は激減しているのです。
こうした時代には、「だれもが知っている有名なもの」はなかなか生まれません。ひとりひとりはじぶんの好みや関心に没入し、ほかの選択があることをほとんど意識さえしないのです。じぶんとちがう嗜好や理念の持ち主に対しては、まったく関心がもてないか、やみくもに反発するかのいずれかです。これでは、「社会的目標」の共有がむずかしくなるのも当然です。
AKB48などは、現代において「だれもが知っている有名なもの」となりえた稀有の例といえます。何十人もアイドルをあつめてくれば、だれだってそのなかにひとりぐらい「好みのタイプ」を見つけられるだろう――そんな「巧妙な反則」が、AKBのやりくちです。
「作者の意見」を表にださず、アトラクションのように作品世界を読者に体験させるという春樹の小説戦略も、AKBとはまたちがった「巧妙な反則」でした。しかし、国際的作家として、社会的に責任ある発言をするとなると、はっきりと方向を打ちだす必要にせまられます。この場合、小説において春樹が採用してきた戦略も、AKBのノウハウもつかえません。
たしかに春樹は、神戸の震災やオウム事件といった国内の事件について意見を表明してきました。けれども、これまでの彼は、立場によって意見が大きくわかれるようなことがらには触れることはありませんでした。
現在の春樹は、以前ならコメントすることを避けていた問題にも、意見をもとめられる存在です。おそらくこのとき、日本国内の空気を厳密に読んだうえで発言したとしても、春樹の小説ほどにひろく支持されることはありえません。
作家としての評価が海外でもたかまったがゆえに、日本国内でもどういうボールを投げたらいいか、春樹はむずかしい選択をせまられています。