『1Q84』とフェイスブック

かくいう私も、企業に勤めた経験はありません。そのせいか、かなり熱中して『平清盛』を見ています。おもしろいとおもわない人の感覚を想像はできても、

「こんなに見せ場だらけのドラマに退屈する人間がいるなんて、信じられない!」

というのが実感です。

とはいえ先日、私の実感がいかに狭い範囲にしか当てはまらないかを、おもいしらされるできごとがありました。

1Q84
[著]村上春樹(新潮社)

私はある集まりに出席し、春樹の小説をぜんぶ読んでいるという、20代の女性とことばを交わしました。話題が『1Q84』におよんだので、私は、

「あれは春樹の長編のなかで、ただひとつの駄作だとおもいます。過去の自作にでてきたモティーフの、できのわるい寄せあつめです。文章も、春樹にしてはよくないし。」

と断言しました。するとそのひとは、

「わたしは好きとしかいえないですけど・・・」

と遠慮がちにつぶやきました。

「小学校のときに別れたきりの恋人と再会なんて、どんだけ大甘なんですか」

その場にいた、私と同年齢ぐらいの女性が切りこむと、

「なんか、因果がめぐりめぐって、みんなどこかでつながってるという感覚が、わたしたちの世代にしてみればすごくリアルなんですよね・・・」

――そんなふうにそのひとにいわれて、私は虚をつかれるおもいがしました。

「そういえば私もこのあいだ、中学時代の知りあいと、フェイスブックで30年ぶりに連絡がとれたということがありました。青豆と天吾が再会するのは、あの感覚なんですね!」

私がいうと、はにかむような顔をしながら、そのひとは静かにうなづきました。

いちおう私も、ツィッターもフェイスブックもやってはいます。しかし、文学上の趣味を確立したのは、そうしたものがあらわれるはるか以前です。じぶんの感覚がいかに古いものであるのかを、そのひとのことばによって私は教えられました。

同時に、この連載の第2回(>>記事はこちら)に書いたことでもありますが、春樹のメディア感覚の不気味なほどのあたらしさをおもい知らされました。私よりほぼ20歳齢上なのに、私よりほぼ20歳齢下の若者と、教えてもらわなければ私がわからないところで共感しあっているのですから。

ここに書いたような「曲がり角」も、春樹は奇想天外な手で乗りこえるかもしれません。たとえば、ネット配信される動画のなかで、さまざまな立場からの意見を、「村上春樹version1」、「村上春樹version2」、「村上春樹version3」etcが語る。その結果、「春樹、ひとり朝まで生テレビ」状態が実現する――それぐらいのことは、春樹ならばやるかもしれないと私は予想します。