春樹は「マッピング不能」だった

「私小説」派の作家がしていることは、パンク・ミュージシャンを連想させます。

日本文学研究者
助川幸逸郎

1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。
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パンクのライヴでは、演奏者がニワトリの首を切ってみせたり、自分のからだにナイフをつきたてたり、といったことがおこなわれます。そうすることで、パンク・ミュージシャンたちは、「過激さ」や「真剣さ」をアピールしているわけです。けれども彼らは、「過激さ」や「真剣さ」以外に他者にうったえかける要素――演奏テクニックとか、音楽上のオリジナリティとか――を、しばしば欠いています。

村上龍の『限りなく……』の主人公は、作者その人を思わせるリュウという青年です。このリュウが、ドラッグをやっておかしくなったり、乱交パーティをしたりするさまが、『限りなく……』にはえがかれています。

つまり、『限りなく……』は、作者の「やばい体験」を告白した小説、として読むことができるのです。龍がこの作品で、

「プロ作家の資質あり」

とみとめられたのは、「パンク私小説作家」の系譜につらなる書き手だとみなされたからでした。

いっぽう、春樹のデビュー作である『風の歌を聴け』は、架空のSF作家であるデレク・ハートフィールドについて語るところからはじまります。みじかい断片をつみかさねていく構成は、実在するSF作家・カート・ヴォネガットJr.の影響です。

海外小説にならって書かれているのだから、『風の歌を聴け』は、「パンク私小説」とはいえません(主人公の「僕」が、法や道徳にそむくことをするわけでもありません)。かといって、「本格小説」の典型的なかたちからもおおきくはずれています。春樹がデビューした当時、「本格小説」のモデルになると想定されていたのは、あくまでほかの国の芸術小説でした。にもかかわらず『風の歌を聴け』は、SF作品をお手本にしています。

春樹は、「私小説」派にも「本格小説」派にも分類できない、「マッピング不能」な作家だったのです。おそらくそのせいで、芥川賞の選考委員は、春樹の「書きつづける資質」をうたがったのでした。