15歳から7年続いた「魂の闇夜」と言うべき体験

「私が生きている」と私たちはふだん思っています。「私はいのちを持っている」と。

しかし、私は本当に限界まで追い込まれて、観念してすべてをあきらめて「ああ、もう、死んでしまってもいいな」と思えた瞬間があった。「もう限界、越えた」「ああ、人生、終わったな」「それでいいや」と思った体験があったんです。

実際に畳の上にぶっ倒れて、あお向けで倒れていたわけですけれど、ちょうどおへそから1mくらい上ですか、そのあたりに、大きないのちの渦のようなものがありありと実感できたんです。「あっ、これが私の本体か」と思いました。

つまりそれまで自分で「私だと思っていた私」は、むしろ私の「仮の宿」であって、ほんの一瞬、数十年という「ほんの一瞬宿った仮の宿」である。私の本体は、もともと生まれてもいないし、死にもしない。生まれることもなく死ぬこともなく、ただそこにある。

この「不生不滅のいのち」が、たまたまほんの一瞬、数十年というほんの一瞬だけ、私している。私という形を取っている。この肉体に宿っている。そうありありと実感したのは、21歳の死を覚悟した時です。

その時の実感としては、「いのちが、私している」。大いなるいのちの働きそれ自体、これは形なきもの、見えないものです。

見えないいのちの働きが、たまたま一瞬、この見える世界、この世で、「この私」という形を取っている。死んだらこの「形」はなくなり、「形なきいのちの働き」だけに戻っていく。

15歳くらいから、「魂の闇夜」とでも言うべき体験をして、ギリギリのところまで追い込まれた。7年間、生きているか死んでいるかわからないような状態で彷徨い続けて、本当に苦しかった。

あの苦しみに比べたら、他の苦しみなど、何でもないというくらい苦しかった。出口がない。7年間、出口がないんです。もう永遠にそのままなのかもしれないと思っていました。

7年間苦しんで、ようやく21歳の時に、ポ~ンと抜け出ることができた。その時の実感としては、「見えない世界」の中に「見える世界」が浮かんでいる。「見える世界」の向こうに「見えない世界」が広がっているのではない。こちら側とあちら側という関係ではない。

神秘的な森のバックライトを持つおとぎ話のドア。白いウサギはドアの間に座っています。
写真=iStock.com/Maria Korneeva
※写真はイメージです

「見えない世界」の中に「見える世界」が浮かんでいる。私の本体は、見えないいのちの働きそのものであって、それが同時に、ほんの一瞬だけ「私」という見える形を取っている。そういう実感です。

「この世での人生」とは、あっという間に終わる「魂の修学旅行」

すると、生と死の境界がほぼなくなる。今も、これまでも、私は基本的には「死の世界」「見えない世界」にいて、これからもいる。

そして、3年か、5年か、10年か、はたまた20年か、30年かわかりませんけれども、「ほんの一瞬」、見える世界にも同時にいる。そういうことなんだろうと思います。

「この世での人生」とは、あっという間に終わる「魂の修学旅行」のようなものだというのが、私の実感です。

そしてその「魂の修学旅行」の間、私たちは常に道に迷っている。日々「いったい、どうしたらいいんだろう?」と迷いながら生きている。「迷い道で彷徨っている状態」が数十年ある。これが、人生なんだろうと思うんです。

「死」ということ、「人生が終わる」ということは、この迷い道から抜け出して、元の世界に戻ること。「人生という迷い道」に、ほんの数十年。それが、人生なんだろうということです。

そしてその「迷い道」から抜け出したら元の「見えない世界」「形なき世界」に戻る。ただそれだけのお話なんだと思うんです。