生き残ったブチャの女性たちの手は垢だらけ
ある女性は、爆撃音や銃撃音が一日中響き、家の廊下に隠れて過ごしたという。戦車が家の庭にまで入って来て、住宅を破壊する様子を見たと話す人もいた。食べ物も底をつき、自宅の地下でずっと過ごしたという人、地下に避難した隣人が餓死していたと語る人もいた。攻撃は2週間にわたって24時間休みなく続いたという。
ブチャでは、インフラの90%以上が破壊されたと聞いた。ある市民に、「水はどうしていましたか?」と尋ねると、「うちは井戸があったから大丈夫だった」と答えが返ってきた。取材した時期はまだ小雪が降るような寒さだったが、暖房も使えず、寒さに耐えながら過ごしたという。食糧は備蓄してあったので、なんとか大丈夫だったとのことだった。
ブチャの女性たちに会って印象的だったのは、みな顔はきれいに洗顔していたが、手を見ると一様に垢だらけの人ばかりだった。シャワーを浴びることができないのだ。ある女性は、寒い中で驚くほど薄着で取材に応じてくれた。自宅の中でロシア兵に見つからないように、ひたすら身を隠して住んでいたということだ。
ホストメリ市では400人以上の遺体が行方不明に
私自身は行かなかったが、ブチャからさらに北西25キロのボロジャンカという町は、ブチャ以上の被害を受けたとされる。砲撃により倒壊した大規模集合住宅の下に、何百人という住民が埋まったままの場所が残っているという。銃を持って自宅に押し入ったロシア兵に、子ども部屋から何から滅茶苦茶にされた話、瓦礫の下敷きになった人を助けようとすると、ロシア兵に「やめろ!」と銃を向けられた話などを聞かされた。
また人口わずか1万7千人ほどのホストメリ市は、国際貨物空港であるアントノフ国際空港があり、開戦当初にロシアの空挺部隊が電撃的に占拠したものの、ウクライナ軍に包囲されて全滅した激戦地だ。しかし、軍が交戦しただけではなく、住民も多数犠牲になった。しかも解放されるまでの35日間で、400人以上の「遺体」が行方不明になっているという。地元当局は、ロシア軍が残虐行為の証拠を隠滅するために、どこかに遺体を持ち去った可能性があると指摘する。
名前が知られているイルピン、ブチャのほかにも、その周辺の小さな町や村落でも、市民の住宅やインフラ設備への破壊行為、住民に対する残虐行為は枚挙にいとまがないほど行われていたのである。