この欲望は本当に自分の欲望なのか?
もはやそこでは、人間の主体性すら曖昧になるような感覚に陥る。『パターソン』で描かれるのは、こうしたテクノロジーが生むハイパー資本主義に抗う術だ。
人々の感情まで商品化される時代に、アメリカが求めていた、自由も愛も、生きる美学も、どこかに流されていってしまったのか? 監督のジム・ジャームッシュは次のように述べている。
単純な欲求は一種の症状になった――ジョナサン・ローゼンバウム
アメリカを代表する映画評論家、ジョナサン・ローゼンバウムは、この映画を別の視点からとらえている。
「ジャームッシュが異色なのは、人気映画監督のほとんどがストーリーテラーなのに対し、彼は詩人であることです。そして、ストーリーを伝えるよりも人物描写に関心を持っています。
『パターソン』には、アメリカでは誰もが、自分では気づいていなくても芸術家だ、という観点があります。『パターソン』では犬ですら芸術家で、詩集をビリビリに食いちぎる時、彼はパンクアーティストです。これは美しいアイデアだと思います。
パターソンは詩を出版することにさえ興味を持ちません。名声に対する欲はなく、評判を高めようとしないのです。世の中に今存在しているものだけで十分だ、という感じです。だから、彼の詩が書かれたノートが破れても、また新しい詩を書けばいい。お金持ちになることより、既に持っているものに感謝することが大事なのです。
一方、資本主義は、人々が常により多くのものを欲しがり、現状に満足できないという概念に基づいています。それは、単純な欲求というよりも、一種の症状のように思えます。重要なのは、ジム・ジャームッシュの映画には反資本主義のメッセージが根底に流れているということです。
そして、それに対して、映画の中で道徳的なだけでなく美学的な代替案を提示しているように思います。
私たちはドナルド・トランプに対して、道徳的にだけでなく、美学的にも訴えを起こすことができますよね。彼のようにセンスの悪い人間が、お金をこれほど持っていることに何の意味があるのか? より醜い世界を作るためなのか? アメリカの資本主義は、そのことについて何も考えていないと指摘しているのです」