「ヨサク」を甘やかしていいのか
はじめにのべたとおり、いまの日本では、ひとつの価値観がひろく共有されることは、むずかしくなっています。そうした時代には、作者の価値観を鮮明に打ちだした作品より、どんな価値観をもった読者にも利用価値のある「体験型アミューズメント」のほうが支持をあつめやすいのはたしかです。春樹の小説は、現代日本に流通させるコンテンツとして、おそろしいほど理にかなっています。
春樹は、さきに引用したインタビューのなかで、こんなこともいっています。
「僕は、これは前にどこかで言ったことがあると思うんだけれど、すべての風俗は善だと思ってるんです。原則的にはね。つまり今あり、今おこっていることは、原則的にはすべてナチュラルであると。」
日本の現状にどれほど不満があっても、それがじっさいに存在する以上、全面否定はしない。どのようにこの国をかえていくべきかについて、作品のなかで声高にさけんだりもしない。ただし、傷つき、疲れた人の再生の手だすけはする――それが、春樹の「やりかた」なのでしょう。
この「やりかた」が、いまを生きる小説家として最良の選択なのかどうかは、この連載の最終回で考えてみるつもりです。いまの段階でいえるのは、春樹の小説は売れているだけでなく、同時代の人間を、それなりに救っているはずだということです。
ただし、この連載の第一回で批判した「ヨサク」さん――既得権益のうえにあぐらをかいていて、日本をかえようとするうごきの足をひっぱる40代以上の人びと――が春樹を好きなのも、この「やりかた」のせいです。すでに「壁」を構成するがわにまわっているのに、いつまでも「卵」のつもりでいる「ヨサク」さんは、春樹を読んで、
「『こっちの世界』ではなにをしたって『壁』に勝てるはずはないから、ながいものにまかれるふりをしておとなしくしていよう。『卵』のように脆弱だが、けがれのない私の魂は、『あっちの世界』であそばせておこう」
と考えるわけです。
もっとも、
「あなたの作品が、『ヨサク』さんたちを甘やかしている責任について、どうお考えですか?」
と、春樹当人につっこんでも、
「それは『ヨサク』さんたちの問題であって、僕の問題じゃない」
と、いなされてしまうでしょうが。