「あっちの世界」でなにをまなぶのか

春樹の小説に問題があるとすれば、「あっちの世界」に主人公がいる場面でも、「こっちの世界」をどのように変革すべきなのかが、はっきりしめされないことです。

春樹の主人公たちは、「あっちの世界」にはいりこんだあと、決定的な行動に出るのがふつうです(主人公の分身的な存在がそうした行動をするところに、立ちあう場合もあります)。いずれにせよ、それらの行動が読者にむけてどういうメッセージを発しているのかは、つねにあいまいなままです。

『世界の終りと……』で、影だけを城壁の外に逃亡させ、じぶんは壁にかこまれた街にとどまること、『ねじ巻き鳥……』で、綿谷ノボルをバットでなぐること、『海辺のカフカ』で、ナカタさんの遺体の口からあらわれた白いぬめりとしたものを殺すこと――こうしたことから、

「じぶんのなすべきことをしっかり引きうけろ」

「『こっちの世界』を住みにくくしている敵とたたかえ」

といった主張はつたわってきます。ただし、読者が具体的になにを引きうけ、だれと戦えばいいのかはまったくわかりません。

春樹は、

「物語とは、そこをくぐりぬけた人間が、精神的な意味で変容をとげるためにある。物語の筋そのものを分析的にながめても、ほとんど意味はない」

といったことをくりかえしのべています。

ようするに、

「じぶんの作品は、『こっちの世界』で傷つき、疲れた人間が、『あっちの世界』に行って再生してかえってくるためにある。再生したあと、『こっちの世界』でなにを引きうけ、だれと戦うかは、読者ひとりひとりの問題だ」

といいたいのでしょう。

美術館にかざられた絵のように、ながめてたのしむものではなく、遊園地の乗りもののように、みずから体験してはじめて価値がうまれるもの――そういうものとしてじぶんの作品を見てくれと、春樹は主張しているわけです。

春樹の作品が「体験型アミューズメント」なのだとすれば、「村上春樹の謎を解く」といった類の文章が、たいてい書き手の「じぶん語り」になってしまう理由もわかります。春樹の小説の「わけのわからないところ」に、ある人が見いだした「解釈」は、その人にとっての「答え」にしかならないしくみなのです。じぶんの作品の文庫版に、他人が書いた解説を載せるのを春樹が拒むのも、おそらくこのためだと考えられます。