春樹が「あっちの世界」をえがく理由
村上春樹も、経済成長至上主義にそまった日本社会を、さまざまなかたちで批判しています。とくにバブル経済の時期に書かれた『ダンス・ダンス・ダンス』や『国境の南、太陽の西』などに、その姿勢は顕著です。
けれども春樹は、経済成長至上主義にかわる「対案」を、三島とちがって政治理念のかたちでは語りません。「経済」とはことなる価値観――「美」とか「忠義」とか――に殉じた人間を、ドラマティックに描いたりもしていません。
春樹が『ノルウェイの森』を、じぶんの作品のなかで異色なものとみなしていることは、前回のべました。そのように考える理由について、春樹はこんなことをいっています。
「つまりね、僕が書いている小説世界というのは、だいたいいつもふたつの世界を内包しているんですね。こっちの世界とあっちの世界ですね。要するに。(中略)僕の意識のなかにはふたつの種類の時間性みたいなものがあるんです。こっちの時間性とあっちの時間性ですね。これは具体的に言うと、僕が小説の舞台として描いている60年代・70年代・80年代の限られた現実の時間性と、それからそういうものを越えた非リアル・タイムの時間性ですね。でも『ノルウェイの森』ではそういう時間性の重層性というのはあまりかかわってこないような気がするんです。だから僕はこれはリアリズムの小説だと感じるんです。実感としてね。」(『ユリイカ臨時増刊号 村上春樹の世界』1989年6月)
『羊をめぐる冒険』で、死者となった鼠と「僕」が会話する山小屋、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の「世界の終り」、『ダンス・ダンス・ダンス』のドルフィン・ホテルの内部にある異空間、『ねじまき鳥クロニクル』の井戸……たしかに春樹の長編には、現実世界の論理を越えた「あっちの世界」がかならずあらわれます。
現実世界の原則にしたがう「こっちの世界」は、どの作品においても、主人公にとって好ましいものではありません。そこに生きる人びとは、少数の例外をのぞけば、想像力を欠き、保身ばかりを気にしているように描かれます。
現在社会の悪しき側面を強調したかのような「こっちの世界」で、春樹の主人公たちは心をとざしています。これに対し「あっちの世界」では、主人公は「こっちの世界」で失われてしまった人びとと再会し、心のそこに隠れた思いを語ります。
「経済至上主義にとらわれた現実世界は、鼻をつまんでどうにかスルーしろ。ほんもののあなたの世界は、仮想現実のなかにある」
春樹の長編小説は、そんなメッセージを読者におくっているかのようです。
この連載では、「春樹、おたく体質説」というのをたびたびとなえています。
「リアルの世界では死んだふりをし、仮想現実にじぶんの根をおろせ!」
というのが春樹の所論なのだとすれば、彼の本性はおたくである、といううたがいはますます濃くなります。