「リアルを生きる」が「消費をかっこよく」だった時代

三島とくらべて、春樹の姿勢はいっけん現実逃避的にかんじられます。思想のために命を投げだした三島と比較して、仮想世界に引きこもる春樹をそしる人もおそらくいるでしょう。

ここでわすれてならないのは、春樹がデビューしたのが、1979年だったということです。80年代には、体制を批判する活動を実践的におこなったりすると、60年代のゾンビのように見られ、笑いものになるのがおちでした。その時代に称賛された「行動」というのは、以前にこの連載でもふれたとおり、消費と恋愛でした。

現実逃避型のおたくを自認する本田透という作家が、2004年に発売された『電車男』にかみついたことがあります。非モテのおたく青年が、ブランド好きの美女と恋愛し、ファッションにめざめる、というのが『電車男』のあらすじです。この作品を本田は、

「おたくを恋愛と消費に引きずりこもうとする悪質なプロパガンダ」

として、告発したのでした。

『電車男』が話題になったころまでは、恋愛と消費に人を駆りたてようとする圧力がまだはたらいていたことを、本田の批判は逆に証明しています。じっさい私も、バブルの残党のような人が、

「おたくはリアルの世界では恋愛しないで、自己満足にひたっているから気味がわるい」

といった「悪口」をもらすのを、リーマンショックのころまでは耳にしました。

現実に身を投じることが、被災地でのボランティア活動ではなく、消費に身をやつすことを意味するのであれば、春樹の姿勢も非難すべきものとはいえません。そして春樹じしんも、春樹のつづるテクストも、消費社会に加担することにつながらない場合には、「こっちの世界」に大胆にコミットします。そのことは、神戸の地震やオウム事件とのかかわりかたを見ればあきらかです。