持病を抱えていた父親への後悔

鳥取大学医学部進学以降、坂本は実家から足が遠のいていた。子どもの頃の窒息しそうな思い出から目を背けていたのかもしれない。

「ほとんど帰っていなかった。年に一回帰ればいいぐらい。音信不通にしている間、父親が腰のヘルニアで何回か手術をしていたんです」

自分ならばヘルニアに詳しい医師を紹介することもできた。なぜ相談してくれなかったのかと口惜しかった。町役場で働いていた父親は口数が少なく、人に頼ることを潔しとしない性格だった。忙しく働いている坂本に迷惑を掛けることはできなかったのだろう。

「術後の経過が良くなくて痛みがずっと残っているというんです。子どもが医者をしているのに、何もしなかった。本当に申し訳ないことをしたなと」

父親は他にも持病を抱えており、鳥取市の病院を中心とした入院生活になった。坂本は可能な限り時間を工面して、病室に顔を出している。とりだい病院で診察中、いよいよ厳しいという連絡が入った。

「外来(での診察)を始めちゃっていたんで、途中でやめることができない。終わってから行きました。担当の先生が気を遣ってくれたのか、人工呼吸器などはそのままでした。最期を看取ることはできなかったんですが、意識がなくなる前、声を掛けたときちょっとだけ反応がありました。それだけでも良かったかなと」

小学校で登校拒否をしたとき、父親が学校まで付き添ってくれなかったらどうだったろうかと思うことがある。今となっては、わざわざ子どもを学校まで連れていくという手間の重みが良くわかる。その恩のある父親に不義理をしたというずしりとした痛みが残った。

「ぼくにとっては大きな存在だったんです。困っている人がいるとすぐに手を差し伸べる。特に女性とか子どもに優しい人でした。人がやりたがらないことを率先してやる。すごいなと思っていました」

入院中も最後まで父親に感謝の言葉をきちんと伝えられなかったという。

「大学病院などでは一人ひとりの患者さんと向き合う時間はどうしても少なくなってしまう。その中でもできるだけ話を聞いていこうと思うようになりました。できなかった親孝行を、病気で困っているお年寄りの方にできたらと」

地域医療は高い水準を継続してこそ

山陰地区で、脳血管内治療を行う医師は限られている。大学病院の医師として、この地域の医療を継続していかなければならないという思いがある。後進を育てていくことが重要な仕事だ。

若い医師たちには、自分と同じように他の地域に出かけて、知見を広げることが大切だと言い続けている。

「ぼくの世代で途切れたら、何のためにやっていたのかという風になってしまう。継続して高い水準を保たないと意味がないんです」

鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 12杯目』
鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 12杯目』

もちろんまだまだ自分の技量も磨いていかねばならないんですと付け加えた。そんな坂本の日々は多忙である。上司にあたる脳神経外科教授の黒﨑雅道は、「坂本は可能な限り、部下たちの手術に付き合っている、その責任感には本当に頭が下がる」と証言する。

彼の唯一ともいえる気分転換は走ることだ。

「週に2日か3日走っています。土砂降りの中を走りたくないので、天気予報を見ながら、その週の予定を組みます。ただ、決めた日が雨や雪でも走りますね」

治療と同じように、決めたことは絶対にやり抜くというのがぼくのポリシーなんですと微笑んだ。

(文=田崎健太、写真=中村 治)
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