秀吉の墓

家康と同じく天下人となった豊臣秀吉の墓の存在は、地元の京都人でも知る人は少ない。その実は、秀吉の墓こそが驚愕きょうがくなのだ。

秀吉の墓は京都市東山区の阿弥陀ヶ峰と呼ばれる山中にある。この秀吉の廟所は「豊国廟ほうこくびょう」という。徒歩圏には清水寺や三十三間堂、京都国立博物館などの観光名所が点在しているが、豊国廟まで足を延ばす観光客はほとんどおらず、地元民がちらほらいる程度である。

豊国廟の墓域への入り口は、京都を代表するお嬢様大学、京都女子大学(通称、京女)正門の脇を抜けた山手にある。大鳥居をくぐるとその先には、ピラミッドのようにそびえる急峻きゅうしゅんな石段が目の前に立ち塞がっている。階段は489段もあり、普通に上がると15分ほどかかる。健脚ではない限り、階段を一気に上るのはかなりつらい。

豊国廟へと一直線に続く489段の階段
撮影=鵜飼秀徳
豊国廟へと一直線に続く489段の階段

途中には唐門があり、それを抜けて最後の階段を上り詰めると、巨大な墓石が視界に飛び込んでくる。墓石の高さはおよそ10m(推定重量100トン)もある。日光東照宮の徳川家康の墓の倍の高さだ。奈良の大仏が像高およそ14mなので、どれほど大きいかが理解いただけるだろう。秀吉の墓は、日光東照宮の家康の墓よりもはるかに巨大(国内最大規模の墓石)でインパクトも、家康の墓以上に強烈だ。

墓の意匠は、「串に刺さったおでん」のような形状の五輪塔だ。石立垣で囲まれ、内部には高さ2m近い石の高炉や花立てがある。すべてがビッグサイズだ。

阿弥陀ヶ峰にある秀吉の墓
撮影=鵜飼秀徳
阿弥陀ヶ峰にある秀吉の墓

筆者が調べた限りではあるが、五輪塔では国内最大と思われる。現在のようなハイテク重機もない時代によくぞ、この巨石を組み上げたものだと感心する。

秀吉は朝鮮出兵の最中の1598(慶長3)年、この地からほど近い伏見城で死亡した。多くの武将が朝鮮半島に出征していたため翌1599(慶長4)年4月18日に、ここ阿弥陀ヶ峰にて葬儀が行われた。そこで朝廷は「豊国大明神」の神号を与え、麓に豊国神社の壮麗な社殿が造営された。遺骸は山頂に埋葬された。戒名は「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」である。

だが、徳川家康が豊臣家を滅ぼすと、秀吉の神号には廃止命令が下り、神社は破壊されてしまう。豊国廟も壊され、江戸時代は参拝者がほとんど訪れることはない廃虚となっていたという。

ところが江戸幕府が倒れた後の1868(明治元)年のこと。明治天皇が大阪へ行幸する際、「豊臣秀吉は天下を取ったが(徳川のように)幕府をつくらなかった」と評価し、豊国神社の再建を命じる。そこで、豊臣家が滅びる原因ともなった方広寺大仏殿跡地に、新しい豊国神社が建てられた。

豊国廟のほうは1898(明治31)年、秀吉没後300年忌事業として、再建されることになった。豊国廟の設計を手がけたのは、築地本願寺や平安神宮などを手がけた名建築家・伊東忠太である。

その工事の最中、土中に埋まった秀吉の甕棺が発見された。それは最高権力者の棺には似つかわしくない粗末な備前焼であったため、破壊時に入れ直されていたと考えられる。棺の中には秀吉が、西向きに座っていた。遺骸はミイラ化しており、すぐにバラバラと崩れてしまった。秀吉の遺骸は桐の棺に入れられ、この墓に祀りなおされた。

豊国廟の完成当初は、ここから京都市全域が一望でき、遠くは大阪市内まで見渡せたという。現在では樹木が高く生い茂っており、眺望はさほどはよくない。だが、廟所北側は清水寺が眼下に俯瞰ふかんできるロケーションにある。

豊国廟から俯瞰する清水寺と京都市街地
撮影=鵜飼秀徳
豊国廟から俯瞰する清水寺と京都市街地

補足になるが、秀吉の御霊を祀る豊国神社は、先述のように方広寺の大仏殿跡地に再建された。社殿の直線上には豊国廟があるので、阿弥陀ヶ峰に登る体力のない人はここから遥拝することが可能だ。

豊国神社と秀吉の像
撮影=鵜飼秀徳
豊国神社と秀吉の像

なお、豊国神社と隣接して、現在の方広寺がある。方広寺境内はかなり規模が縮小しているが、現在でも国内最大規模を誇る梵鐘(高さ4.2m、重さ83トン)があるのでぜひ、ご覧いただきたい。梵鐘に刻字された「国家安康」「君臣豊楽」が大坂の陣の引き金となったと言われている。権力構造を変えたその文字も確認することができる。

「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれた(白枠)方広寺梵鐘
撮影=鵜飼秀徳
「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれた(白枠)方広寺梵鐘

戦国時代を生き抜いた三英傑の墓は、その栄華と滅亡を無言のままに伝えている。

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