科学技術の驚異的な発展が豊かさをもたらした20世紀は、一方で、歴史上に例を見ない規模の戦争や虐殺が暴発した時代でもある。その過程で、人々が疑問もなく受け入れていた感情や、人を愛するといった基本的なこと、生きるかたちそのものを根底から崩壊させてしまった。その象徴が「文化や芸術、その歴史が世界のモデル」という矜持のあったヨーロッパの崩壊である。神や、人間の矜持を失い、人生が「意味のない偶発事」となってしまったときに、どのように生きるための理由を見つけるのか。本書の視線はそこにある。

クセナキスという極めて難解な現代音楽家がいた。「プラハの春」がロシアの戦車に踏みにじられ、チェコスロヴァキアが占領されたとき、「ロシア帝国の内側では、他の多くの国民が自らのアイデンティティまで喪失しようとしていた。そこで私は(中略)明白なことを理解したのである。チェコ国民は不滅でなく、存在しなくなることもありうるのだと」。クンデラのクセナキスの音楽への愛着は、そんな時代を背景としている。

クセナキスの音楽とは、端的にいえば文化・芸術の頂点ともいえるヨーロッパ音楽に背を向けるものである。ヨーロッパ音楽は、ひとつの音符にひとつの音階という人為的な音に基づいており、そこには人間の主観性が表現されている。しかしクセナキスの音楽は、心の内面からわき出る主観の表現ではなく、騒音や雑音といった、外界にある客観的な音を出発点とする。

「国をおそった破局によって引き起こされた失望は、あるがままの人間、すなわち残酷さをもっているが、またその残酷さを隠すための口実をいつも見つける人間、つねに感傷によっておのれの野蛮さを正当化する心づもりでいる人間にも関わるものだった。感傷的な動揺は粗暴さと一体になり、その一部をなすのだと理解したのだった……」

主観と感傷の対極に位置するクセナキス作品の客観的な雑音の世界に、クンデラは粗暴さのない美を見出したのである。

暴発がいきつくところまでいき、第二次大戦が終わり、ロシアとアメリカに解放され、占領されたことで、新しいヨーロッパはそこから出発した。『存在の耐えられない軽さ』や『冗談』をはじめ、多くの作品が世界で読まれているクンデラは、昨年、権威あるプレイヤード叢書に存命中に収録されるという名誉を得て、ヨーロッパでずいぶん話題になった。非フランス人のフランス語表現作家では3人目という。1968年の「プラハの春」から7年後、クンデラはフランスに亡命している。

「芸術が消え去ってしまう世界、(中略)芸術以後の時代、芸術への欲求、芸術への感性、愛情が消えようとしている時代」という最悪の時代に、生きる意味を探ろうというクンデラの視線に触れることによって、「崩壊」後の恐ろしい状況を認識させてくれる評論集である。