ずっと気になっていたことがあった。本書に何度も出てきた「株主全体の目線」という言葉である。例えば、こんな具合だ。「株主を基軸とする経営とは、個々の株主の目先的な欲得に迎合することではない。『こう考えるはずだ』『こう期待するはずだ』といった株主全体の目線を想定して経営を行えば、他の利害関係者が犠牲になることなしに株主価値を高めることができる」。

別書『株式投資家が会社に知って欲しいこと』(日本コーポレート・ガバナンス・フォーラム編、商事法務)では、こうだ。「よく企業経営者と会って話をさせて頂くと、時々、『株主の顔が見えないから、誰を向いて経営に関する説明責任を果たすべきなのかわからない』という声を耳にします。…(中略)…顔の見えない株主の平均的な意向は何でしょうか。それがコーポレート・ファイナンス(企業の資金調達・運用)なのです」。

この二例を総合すると、「株主全体の目線」=「株主の平均的な意向」=「コーポレート・ファイナンス」となる。日本の企業経営者は、株主という個別具体的な、すなわち人間のような存在をイメージしがちであるが、実は、株主とはかなり抽象的な「論理の体系」だといえる。

この捉え方は、日本人には理解しづらいようだ。評論家の故山本七平は、日本人論の古典『「空気」の研究』(文藝春秋)の中でこう指摘する。

「人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在観的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい」

要するに、「熱いものにさわって、ジュッといって反射的にとびのくまでは、それが熱いといくら説明しても受けつけない」(中根千枝、社会人類学者)のだ。

山本はさらにこう言い換えている。「人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換を行うことができない」と。株主が「論理の体系」ならば、それは言葉で構成されることになる。しかし日本人は、言葉で構成された世界を実感を持って把握し、それに現実的に対処することができない。従って、日本の企業経営者は「株主の顔が見えない」と嘆くことになる。

そんな企業経営者に必要なのは、コーポレート・ファイナンスへの理解であろう。本書はその一助となる良書。これを理解すれば、ROE(株主資本利益率)に関する議論ももう少し相対化できるのではないか。日本の企業経営者のすべてが理解不足とはいわぬが、「会社は誰のものか」についての議論があれほど盛り上がったにもかかわらず、「株主とは何者か」への関心は低いように思われる。ここを明確にしなければ、そもそもコーポレート・ガバナンスの議論も始まらない。 (文中敬称略)

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