私が銀座のクラブを知った日
私にも、銀座を見なければ眠れない日々があった。
ハナから私事で恐縮だが、私と銀座の縁から書くことをお許しいただきたい。
早稲田大学の3年間、私は「バーテンダー」をやっていた。アルバイトではない。当時は、履歴書に「高校卒」と書けば、何も聞かずに雇ってくれた。その前に、バーテンダースクールに3カ月ほど通っていた。
新宿、渋谷、上野と流れ、お決まりの年上のホステスと半同棲。彼女が銀座のクラブで働いていたため、銀座のクラブというのを知ることになる。
クラブの名は『ジュン』といった。当時としては超が付く一流店だった。店の前に黒服が立ち、入る客を誰何する。私は毎晩のように、彼女が店を終わって出てくるのを待っていた。
あるとき、塚本純子ママが、「あの子も入れてあげなさい」といったらしく、クラブに招き入れられた。
煌びやかな内装で、派手な女性たちが着飾っているというイメージがあったが、そうではなく、高級な美人喫茶のような店だった。女性も私より年上ばかり。「あなた学生さんなの?」と珍しそうにじろじろ見られたが、優しく接してくれた。
記憶に間違いなければ、俳優の二谷英明が馴染みのホステスと話し込んでいた。女優の司葉子の夫の相澤英之自民党議員が数人のホステスを相手に語らっていた。静かな時間が流れていた。
ママに「請求書を送ってよ」というと…
それから2年後、編集者になった私は、売れっ子作家と銀座で食事をしていた。作家から「どこか銀座のクラブへ行きたい」といわれたが、新米編集者に顔のきく店などあるわけもない。仕方なく『ジュン』へ行って、黒服に「ママを呼んでくれ」と頼んだ。
塚本ママは快く入れてくれたが、作家のほうは仰天していた。私の面目は立ったが、心配なのは勘定である。ママに名刺を渡し、「ここへ請求書を送って」といったが、いくらになるか気が気ではなかった。貧乏月刊誌では銀座のクラブの接待費など出るわけはない。
といって、月給5万円の私に払う余裕はない。だが、いつまでたっても請求書は送られてこなかった。しばらくして、恐る恐る店に行ってみた。ママに「請求書を送ってよ」というと、「いいのよ、出世払いで」と笑っているだけだった。
そんなことが3、4回続いたある夜、ママから、「今度、この店にいた子が独立して小さなクラブを開いたの。行ってやって」といわれた。ピンときた。ここは今のお前には分不相応だから、もっと安い気軽な店にいったほうがいい。そうママはいいたいのだと。