自分の中に答えがあっても、まずは家臣団で話し合いをさせる
家康は、小山評定の前日、まず自分の家臣団だけで軍議をおこないました。
ある時期から家康は、家臣の前で自分の意見を積極的に言わなくなりました。決断すべきことがあるときには、まず家臣たちに話し合いをさせ、その内容に耳を傾けながら情報を収集し、状況を分析し、自分の考えを練り上げ、己れの意に添う意見が家臣の中から出てきたときに、それに賛成するというスタイルを取りました。
これは、多様な視点から物事を吟味し、最適な解答を選択できるという利点がありますが、より大きいのは、
「衆議を尽くした」
という、空気感を形成できることです。
自分の意見を採用された家臣は大きな喜びを覚えますし、そうでない家臣も、
「私が申し上げたいことは、評定の中ですべてはっきりと申し上げることができた」
と、満足感を抱くことができます。そのぶん、たとえ自分の意見が選ばれなかったとしても、決まったことに対して納得して臨めます。
そのため家康は、己れの中で答えが最初から出ているときも、あえてそれを口にせず、家臣たちに話し合いをさせました。
さて、この日の軍議で真っ先に発言したのは、家康の参謀である本多正信でした。
「この陣中にいる大名たちは、大半が豊臣家の家臣です。彼らの多くは大坂に妻子を残しており、今やその妻子は三成の手の中にあります。したがって、いつ寝返ってもおかしくありません」
さらに正信は、会津征伐軍はこの地で解散し、諸侯を各々の領地に返したうえで、しかるのちに去就(進退)を明らかにさせればいい。三成勢には、徳川家が一手でこれを迎え撃つ覚悟で、臨むことが大切だ、という意見を述べました。
「信頼できる味方だけで守りを固めて、三成勢と戦おう」
というわけです。いかにも三河武士らしい、堅実な考え方でした。
「三成を討つしかない」という発言を忍耐強く待つ
しかし、堅実さは強みであるとともに、時の勢いに乗って一気呵成に仕掛けることができなくなるために、弱みにもなってしまいます。
このとき家康の心の内はと言えば、
「三成たちを、攻めるしかないだろう」
と思っていました。
攻めなければ、こちらが攻められることになります。守りに徹している人間に、天下を取ることはできません。だから今は攻めるべきときだ、と家康は心底で考えていました。
しかし、そのことは家臣たちの前では口にしません。ほかの家臣が、それを言い出すのを忍耐強く待ちます。
すると正信の意見に、“徳川四天王”の一・井伊直政が異を唱えました。
「物事には、勢いというものがございます。今、この勢いに乗って怒濤のごとく西上すれば、我らはけっして三成に敗れはしません。殿、決断のときですぞ」
直政の言葉に、家康は頷きました。徳川家臣団としての方針が、決まった瞬間でした。