難しい交渉をうまくまとめるには、なにが重要なのか。歴史家の加来耕三氏は「豊臣秀吉は、織田信長の後継者を決める清洲会議の交渉で、劣勢から逆転勝利をおさめた。それは『上様の無念を晴らしたのはだれか』という話題が出るのを、じっと待つことができたからだ」という――。

※本稿は、加来耕三『日本史を変えた偉人たちが教える 3秒で相手を動かす技術』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。
重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)。慶長3年(1598)賛 京都・高台寺蔵。(写真=大阪市立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

清州会議に向けてセッティングされた“アジェンダ”

天正10年(1582)6月2日、織田信長が家臣の明智光秀の裏切りに遭い、京都の本能寺において横死しました。

すると、中国地方で毛利攻めをおこなっていた羽柴(のち豊臣)秀吉は、光秀謀叛の知らせを聞くや否や、すぐさま毛利氏と和睦を結び、世に有名な“中国大返し”を敢行。本能寺の変からわずか11日後の6月13日、山崎(現・京都府乙訓郡)の合戦において光秀を討ち滅ぼし、信長の仇討ちを果たしました。

そして、その2週間後の6月27日、清洲城(現・愛知県清須市)に織田家の重臣4名(柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興〈信長と乳兄弟・織田家の代理人として〉・羽柴秀吉)が集められ、開かれたのが清洲会議でした。

「主君信長および嫡子・信忠の死後、織田家の跡目を誰にするか」
「織田家の遺領をどのようなかたちで管理、運営するか」

この二つを協議することが目的でした。