※本稿は、伊東潤『平清盛と平家政権 改革者の夢と挫折』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。
優れた統治機構を作り上げたのは文官たちだった
頼朝は清盛から何を学び、また何を反面教師としたのだろうか。
その第一が統治機構を確立したことだろう。考えてみると、平家というのは既存の朝廷という統治機構に食い込んでいったことから、独自の統治機構を持たず、政治体制も律令制度から脱するものではなかった。たとえ偶然からとはいえ、それを何のお手本もなく打破していった頼朝は、さすがとしか言いようがない。
大河ドラマは人間ドラマ部分に注目が集まりやすいので、試行錯誤しながら統治機構を作り上げていく文士(文官)たちの姿が描かれないのは仕方がない。しかし鎌倉幕府は優れた統治機構を確立した文士たちに恵まれたからこそ、多くの武士(開発領主)の支持を得られたと言っても過言ではないだろう。それが、明治維新まで680年余も続く武家政権の端緒となったのは周知の通りだ。
本稿ではとくに「統治機構(組織)」に焦点を当て、鎌倉幕府がいかにして存続し得たかについて考察していきたいと思う。
平家政権は「真の武家政権」ではなかった
平家政権は伊勢平氏という武門の氏長者の平清盛が中心にいたため、武家政権の端緒と捉えられがちだが、実際は朝廷による従来の統治機構と利権構造に平家が入り込んだというのが正しい認識だ。
すなわち清盛には確固たる国家ビジョンがあったわけではなく、朝廷、公家、寺社が長年保持してきた利権をわが物にするという考えしかなかったことになる。
「政権ビジョンを描くなど、この時代には無理だ」と考える向きもあるかと思うが、実際は渡海した僧が持ち帰った漢籍(『四書五経』や『武経七書』)には、「国家とは」「首長とは」「政治とは」といった命題が掲げられ、それぞれ回答らしきものも載っている。
これらを読んでいれば、自分なりの国家像や政治理念、そして新たな統治機構といったものが形成されるはずだが、清盛にはそんな痕跡は皆無だ。つまり酷な言い方をすれば、自らと一族の繁栄のためだけに、武力によって公家社会や権門勢家から政策決定権、利権、人事権などを奪ったと言えるだろう。