朝廷、大社大寺と並ぶ軍事権門の誕生
頼朝と大江広元らスタッフは、「御恩と奉公」という所領の安堵と新恩給付と引き換えに、武士たちを鎌倉幕府のために奉仕させる仕組みを生み出した。これは画期的なことで、武門のトップが、自家の郎党や所従以外の武士たちとの間に主従関係を築いた端緒となった。すなわち開発領主の所領と権益を、上位機関が法的に守ってくれるとなったことで、彼らも幕府に忠節を誓い、幕府は強力な軍事集団を形成していくことになる。
かくして木曾義仲、伊勢平氏、義経と奥州藤原氏といった敵対勢力を滅ぼした頼朝は、朝廷から右近衛大将に補任され、その率いる幕府は「唯一の官軍」として認知された。
これは、政治を司る朝廷、宗教を司る大社大寺と並ぶ軍事権門の誕生を意味した。
つまり朝廷が鎌倉幕府を認めた時、東国のローカルな軍事集団は、朝廷を支える軍事権門に成長したことになる。同時に頼朝を頂点とした御家人たちの地位も、朝廷の身分秩序の中に包摂されることになった。
だが頼朝は平家政権から学んでいた。官位の下賜という朝廷の特権を駆使されると、御家人たちが朝廷と直接結び付く。それを防ぐには、幕府が官位推挙権の一元的掌握をせねばならない。要は「武家の官位については、幕府の推挙なしに与えないでくれ」と釘を刺すことで朝廷と距離を取り、幕府を独立した組織としたのだ。
武士たちが崇拝する朝廷から独立を勝ち取った
古来、武士たちにとって朝廷から与えられる官位は、自らの権威を示すと同時に、所領を支配する正当性を保証するものだった。その推挙権を頼朝が一元的に管理することで、幕府は朝廷の下部組織(軍事権門)という位置づけながら独立を勝ち得たのだ。
一方、頼朝が幕府を創設した頃は、朝廷側にも後白河院、源通親、後鳥羽天皇といった一筋縄ではいかない人材が輩出した時期でもあり、その晩年、頼朝でさえ朝廷に取り込まれそうになる。その傾向は頼朝の死後も強まり、後鳥羽院とソウルフレンドのような関係を結んでいた3代将軍実朝は、次期将軍に後鳥羽院の息子を迎えようとするところまで行く。
つまり平清盛がそうだったように、幕府も朝廷の一機関という地位に甘んじる方向に進んでいったことになる。それだけ朝廷というのは魅力的なもので、武士たちにとって憧憬を通り越した崇拝の対象だったのだ。
それを阻止したのが北条義時になる。簡単に言えば、義時はこのまま朝廷追従路線を続ければ、幕府は形骸化し、武士たちも公家たちの走狗に逆戻りするという危機感を持っていたと思われる。