「前田さんがキリンのトップになっていたら」
その一方、こんなケースもある。
一番搾り開発チームに、84年入社の舟渡知彦がいた。京大農学部を卒業し名古屋工場の醸造技師をしていたところを、前田が89年1月発足の開発チームに引き入れる。
前田は09年3月にキリンビバレッジの社長になるが、同社長時代に舟渡に次のように言った。
「『一番搾り』の開発には、醸造技術者である舟渡の力がどうしても必要だった。しかし、舟渡を生産部門に早く戻そうと、俺は考えていたんだ。というのも、マーケターにはある種のセンスが必要なんだが、舟渡にはそれがない。生産に戻れば間違いなく君は出世できた。ところがだ、俺は戻すタイミングを逸してしまった。すまないことをした」
生産に舟渡を戻せなかったのは、前田自身が飛ばされてしまっていたことが大きかった。だが、このとき舟渡は前田に言ったそうだ。
「いえ、私に人生と呼べるものがあるなら、それは前田チームで『一番搾り』をつくっていた1989年のあの1年間なんです。出世とか高い給料とか、まして誰かを蹴落とすとかじゃない。『一番搾り』を世に出すことができて、本当に私は幸せだった。たくさんのお客様に喜んでもらえたのですから。サラリーマンの幸せとは、何をやり遂げたか、だと考えます」
舟渡は21年、子会社の執行役員を最後に退職する。
上司としての前田は、実は限りなく厳しかった。それでも、部下の幸せを考える優しさを有していた。
「左遷されたとき、よくぞ辞めなかった。前田さんがキリンホールディングスの経営トップになっていたなら、とキリンの誰もが考えていたのに」
こんな声はいまでもキリン社内から聞かれる。
私欲を持たず、他者に対しては「ギブ・アンド・ギブ」で見返りを求めない。出世して立場が変わっても、廉潔な姿勢を終始崩さなかったからこそ、いまも多くの部下たちから愛され続けているのだろう。