死んだはずの父が手配した脱北ブローカーが現れた
僕は10代半ばを過ぎても相変わらず、休むことなく何らかの労働に明け暮れた。祖母と一緒に畑に行って出荷したあとに落ちた農作物を拾ったり、自ら畑に種をまいて収穫もした。同じ村の友達と一緒に川で砂金を採り、0.1g採れば100ウォン(約10円)になり、米1kgが買えた。
ほか、数km離れた炭鉱で採った炭をチャンマダン(市場)で売る、リヤカーで運搬業をする、数日分の食料を持参して遠くの山まで薬草を採りに行く、豚の餌になる草を刈ってきて売る……。
そんな終わりの見えない日々が続いていた2003年の年末、18歳になっていた僕をある人物が訪ねてきた。
「俺は、お前の父親がお前を呼び寄せるためによこしたブローカーだ」
僕はそれまで、父は「苦難の行軍」のときに路上でのたれ死んでいた人々と同じ末路を辿ったのだとばかり思っていた。しかし父は生きていて、中国を経由して南朝鮮(韓国)から僕を呼び寄せようとしているというのだ。
南朝鮮を目指す脱北は重罪だが…
父に会いたい気持ちはある。ここでの生活にも疲れていた。しかし、リスクの大きすぎる賭けだった。
まず、安全に脱北できる保証はない。北朝鮮では、南朝鮮を目指すことはただの脱北よりもはるかに罪が重い。捕まったら数年間の懲役刑か、最悪の場合は政治犯収容所に送られ、そこで一生を終えることになるだろう。そうなった場合、親代わりに育ててくれた祖父母や、叔父たちもただでは済まない。大切な人たちの運命まで狂わせてしまうと思うと、心が揺れ動かずにはいられなかった。
一方、脱北が成功しても、愛する祖父母や叔父たち、そして友人たちとは今生の別れとなる。激しく逡巡した。
だが、ただひとつ明らかなのは、ここにいる限り僕の人生が開くことはないということだった。
結局僕はいつもどおり、友達の家に行くふりをして家を出た。祖父母の顔を見ると踏みとどまってしまいそうで、別れの挨拶はできなかった。
それが一度目の脱北だった。