白黒テレビやミシンも借金のカタに持っていかれた
母と姉を亡くし、父が消え、弟と生き別れた僕は、10歳から18歳まで、ほとんどの時間を祖父母の家で過ごした。
僕は、長男の孫ということで祖父母から特別に愛されていたように思う。特に祖父からはとても大事にされていた。
生活が少し安定していた頃は、叔父たちが普段食べられない美味しいものや、なかなか手に入らない珍しいものを祖父にプレゼントしてくれたのだが、祖父はそれをすべて僕にくれた。叔父やいとこたちは、同じ孫なのになぜ差をつけるのかと不満に思ったかもしれない。
祖父母の家は一軒家で、2世帯で住めるようになっていた。台所と3畳ほどの部屋が2つあり、祖父は、北朝鮮では「上の部屋」と呼ばれる年長者用の部屋を寝床にし、祖母と僕は「下の部屋」で一緒に寝ていた。
冷房もないため夏は窓を開けっぱなしで、蚊がたくさん入ってきた。台所では石炭を使い、余裕がなくなれば薪に切り替えることもあった。
部屋の中には特に何もなかった。
一時期、白黒のテレビがあったが、叔父の1人が事業に失敗して借金のカタに取り上げられてしまった。祖母はミシンがすごく好きで、服に穴が開くとミシンで直していたが、それも持っていかれてしまった。
隣人や家族とうたってしゃべるのが幼少期の唯一の楽しい思い出
しかし、叔父たちが人付き合いが上手く、あらゆるところから助力を得られたのと、2000年代に入り北朝鮮経済が少し回復したのもあって、その後は家計を持ち直すことができた。僕が脱北する数年前は「苦難の行軍」時代も終わり、少しは余裕ができた様子だった。村の中では頼りにされるような、そんな家だった。
祝日や、祖父母の誕生日になると親族で集まり、祖母の手作りの豆腐や料理、各家庭から手料理を持ち寄って宴会をした。
普段はとうもろこしだが、その日だけは白米とお肉を食べられる。この日のために、皆で少しずつ米やお金を集めるのだ。昔は政府から油100gや肉などの配給があったが、その頃にはもうなくなっていたので、自分たちでどうにかするしかない。
お酒は焼酎を密造する人が多かったので、買ったり造ったりしたものを飲んだ。ビールは一般の人では手に入らないが、たまに叔父の1人が買ってくることがあった。その叔父は軍部隊の物流関係の仕事をしていたため顔が広く、人脈を通じて高級品を調達してくることが珍しくなかったのだ。
狭い部屋に4世帯がひしめきあって、歌をうたったりしゃべったりして盛り上がる。村の親しい人や、近くの村に住んでいる叔父の友人が来ることもあった。
僕は祝日や祖父母の誕生日が終わると、次に皆で集まれる日がいつ来るかを毎度楽しみにしていた。子供の頃の、唯一の楽しい思い出だ。