朝5時から16時間の薬草摘みで日銭を稼ぐ

祖父母のもとに身を寄せてからは、日銭を得るために働く日々が続いた。小学校卒業後に6年間通うはずの高等中学校には通えなかった。

生きるために必要な額は、最低でも1日30ウォン(約3円)。毎朝、山で薬草を採ったり、薪を集めたり、秋は祖母と一緒に畑に落ちているとうもろこしや豆を集めることもした。1998年頃の一時期は、中国から買い付けた薬草が高値で売れることもあり、助かった。

薬草採りは僕と同じく、学校に行けなかった子と一緒に朝の5時頃に出発し、山に入って2~3時間は歩く。そうまでしないと、採れる場所がないからだ。そして薬草をリュックに詰めて夜の8時、9時に戻る。

やがて数カ月後には1500ウォン(約150円)ほどが貯まったが、これは結構な金額だった。それまで服を買ったことがなく、ほとんど同い歳のいとこや叔父たちのおさがりをもらっていた僕は、当時流行っていた、金正日と同じズボンが欲しかった。だが冬を十分に越すための石炭2tの値段が約1400ウォン(約140円)。ズボンは500ウォン(約50円)だったので、諦めた。

家から10kmくらい離れた炭鉱までリヤカーを引いていき、100kg当たり50ウォン(約5円)で仕入れた炭を100ウォン(約10円)で売ったりもした。丸く固めて穴が開いた練炭は暖を取る用、石の形をしたものは外での炊事用と用途が分かれていた。

裏庭で手引きカート
写真=iStock.com/aimintang
※写真はイメージです

また、北朝鮮ではウサギや豚を飼うことが多いので、餌になる草が売れる。だが、それらを20kg売っても、とうもろこし1、2kg分しか得られない。とうもろこしと葉物を半分ずつ入れてお粥のようにして食べるが、葉物が多いとすぐに腹が減ってしまう。稼ぎによって、とうもろこしの量が増えたり減ったりした。

「なぜこんな過酷な暮らしを」と疑問に思う余裕すらなかった

そんな毎日が何年も、雨の日も雪の日も休みなく続いた。天気が悪い日は薬草採りは休みたかったが、祖母にどやされるので仕方なく体を引きずった。

今のように週休2日という概念はなく、延々と続く重労働。夜に帰って友達と会いたくても、明日のためには早く寝ないといけない。

楽しみといえば、明日は美味しいものを腹いっぱい食べられるだろうか、少しは質が良くなったり、量が増えたりするだろうかと思いを馳せることだった。

とにかく食うためだけに必死だったので、どんなにスローガンを叫ばれ扇動されても、政治のことを考える余裕はなかった。

北朝鮮に生まれると、大多数の国民は海外の情報に触れることができない。よって、自国の矛盾に気づくこともない。毎日テレビで「我が国は地上の楽園」と言われることを不満に思う人が多いならば、今頃北朝鮮という国はなくなっているだろう。

僕は、なぜ自分がこんな暮らしをしなくてはいけないのかと疑問に思うことすらできなかったのだ。