北朝鮮の一般庶民の暮らしぶりはどのようなものなのか。北朝鮮の地方に生まれ、2008年に23歳で脱北したYouTuberのキム・ヨセフさんは「地方に暮らす国民は貧困にあえいでいた。1日3円を稼ぐために学校にも通わず、ひたすら薬草や落ちた豆をかき集めた」という――。

※本稿は、キム・ヨセフ『僕は「脱北YouTuber」』(光文社)の一部を再編集したものです。

北朝鮮。田舎
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食べ物を調達してきてくれた弟との今生の別れ

10歳くらいの頃に母が亡くなったあと、父もどこかに消えてしまった。のちほど祖父から聞いた話では、父は食べ物を求めて親戚の家を転々としていたが、そのうち親戚も父を囲う余裕がなくなったため、中国に出稼ぎに行ったのだという。中国から父が連絡を寄こしたので判明したが、父が姿を消した当時は、親戚の誰もが父はどこかで飢死したのだと思っていた。

弟との路上生活ののち、僕は祖父母と叔父たちが住んでいる地域に身を寄せることになった。

しかし、当時の祖父母は自分たちの食べ物さえ得られない状況で、僕たち兄弟を育てる余裕などなかった。食料配給があるときですら、周りに住んでいた人々や叔父たちから食料をもらって生活していたほどだった。

路上生活をしていたとき、盗みがどうしてもできなかった僕は、弟が奪ってきたものを食べていた。本来なら兄である僕が弟を養うべきなのに、実際には弟に頼りっきりで、まるでお荷物だった。祖父母が、「兄弟どちらか1人ならなんとか世話ができる」と手をさしのべてくれたときも、弟は「僕は1人でも生きられるから、兄ちゃんが行きなよ」と言った。

正月が過ぎたばかりの寒い日だった。

僕たち兄弟は「春になれば、畑に行ける。なんとか兄弟2人分の食料も手に入れられるだろう」と考え、3月にまた会おうと約束し、駅前で別れた。

だが、僕は何が何でも彼と一緒にいるべきだった。それが、最後の会話になってしまったから。弟と再び会う日は訪れなかったのだ。

脱北後に中国で父と再会したとき、そこに弟を連れてこられなかったことが本当に辛く、情けなかった。

7人家族が、たった2人だけになってしまったのだ。

僕は息子として、兄としての責任を果たせなかった自分を責め、それから毎日横になっては、弟を思い出して泣いた。

凍える冬の駅の下、身を寄せ合って夜を越した日々。弟は精神的なストレスのせいか、もう赤ん坊ではないのによくおねしょをしていた。夜に漏らした尿でズボンが凍ってしまうので、起きてから体温で溶かし、動きまわることでなんとか乾かしていた。僕はそれをどうにもできず、ただ隣で見ているしかなかった。その光景が鮮明に思い出される。

今でも、彼を想わない日はただの1日もない。