終戦後、米国の占領下にあった沖縄県は、日本の法律ではなく、アメリカ民政府が出す「布令」の縛りを受けた。その中には、庶民の魚であるサンマに20%の関税を課すものもあった。沖縄テレビの山里孫存ディレクターは「米国側を訴えた魚屋の女将は、1人で7000万円を勝ち取った。米国の意向が絶対の沖縄で劇的な勝利だった」という――。(第2回/全2回)
※本稿は、山里孫存『サンマデモクラシー』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。
「徴収された分を返せ」請求額は7000万円相当
一九六三(昭和三十八)年八月十三日。沖縄は沸いていた。夏の甲子園に沖縄代表として出場した首里高校が、ついに悲願の初勝利をあげたのだ。復帰運動の熱も加わり、島中がひとつになり高校野球に夢中になっていた夏……。
まさにその八月、魚屋の豪傑女将・玉城ウシと、その口八丁手八丁で話しまくる様から「ラッパ」という異名で呼ばれた弁護士・下里恵良のタッグが挑んだサンマ裁判が始まった。
琉球政府が大衆魚サンマに対して課税徴収しているのを不当として、ウシとラッパは「一九五九年から納付してきた四年半分の物品税、四万六九八七ドル六一セントを還付せよ」と中央巡回裁判所に訴えた。
この「四万六九八七ドル六一セント」という細かすぎる金額設定が、いかにも曲者の下里ラッパらしい感じだが、一ドル三六〇円という当時の為替レートと消費者物価指数の変動などから換算すると、現在の貨幣価値では、七千万円にも相当する金額になる。
いったい玉城ウシは、どれくらいの規模で商いを展開していたのだろうか?
玉城ウシのサンマ裁判が争われていた当時、一九六三年九月十一日の「沖縄タイムス」に、とても面白い記事が掲載されているのを発見した。それは「予算とくらし」という連載企画の二十三回目の記事。それがどう面白いのかというと、その新聞記事は「サンマ」の気持ちになって書かれていたのだ。
地元漁業者にとってサンマは「ヨソ者」扱い
「沖縄タイムス」一九六三年九月十一日
「私はサンマ」物品税問題で騒がれている張本人です。「大衆魚」とは私のニックネームだのに二〇%も課税されるとは心外です。七、八年前までは沖縄の皆さんにはよく知られていなかった。サンマのカン詰めでは通用せず利口な商人がイワシのラベルで売り出していたほどでした。(略)
私はまたたくまに人気者になってしまい、今年一月から六月までの半年で五十九万五千ドル入荷、六〇年の一年分を四万ドルも上回っています。ここまで愛食していただくまでに何回となく、地元の魚にねたみ、いやみをいわれました。なんといわれようと、皆さんがついて下さるので心強かった。執念深い地元の魚のためにとうとうヨソ者扱いにされ、布令で追われる身になりました。助けてくださいヨ! お願いします。
「私はサンマ」物品税問題で騒がれている張本人です。「大衆魚」とは私のニックネームだのに二〇%も課税されるとは心外です。七、八年前までは沖縄の皆さんにはよく知られていなかった。サンマのカン詰めでは通用せず利口な商人がイワシのラベルで売り出していたほどでした。(略)
私はまたたくまに人気者になってしまい、今年一月から六月までの半年で五十九万五千ドル入荷、六〇年の一年分を四万ドルも上回っています。ここまで愛食していただくまでに何回となく、地元の魚にねたみ、いやみをいわれました。なんといわれようと、皆さんがついて下さるので心強かった。執念深い地元の魚のためにとうとうヨソ者扱いにされ、布令で追われる身になりました。助けてくださいヨ! お願いします。
このユニークな記事から、サンマへの課税の根拠となるアメリカの民政府が出した「布令十七号」の裏には、沖縄の地元で獲れる近海魚を扱う漁業者と、日本本土からの「輸入魚」を主に商いをしている「輸入業者」との間での攻防戦があった様子がうかがい知れる。