ひとりで県全体の8%に当たる量を輸入していた

サンマの缶詰にイワシのラベルを貼って売っていたという話にも興味をそそられるが、最も注目すべきポイントは、その当時の「サンマ輸入額」について具体的な数値が示されている点だろう。

「今年一月から六月までの半年で五十九万五千ドル入荷、六十年の一年分を四万ドルも上回っています」とされている。数学は苦手だが、この数字から「順調に右肩上がり」していたと仮定して計算すると、サンマへの課税が始まった一九五九(昭和三十四)年から沖縄に入荷したサンマの四年半分の輸入額全体は、二五〇万ドルから三〇〇万ドル程度だったと考えてよいと思う。

ウシさんが返せと訴えた金額が「二〇%課税」された分の額だから、玉城ウシが輸入した四年半の総額は、二十三万五千ドルだったことになる。すると、ウシおばぁの商いは、沖縄に輸入されたサンマ全体の約八%程度を占めていたと推測できる。

ひとりで全体の八%! 数字でみても豪傑女将ウシは、沖縄の魚市場にその名を轟かしていた大物だったことが分かる。

下里恵良の弁護を受け、玉城ウシのサンマ裁判がいよいよ始まった!

沖縄タイムスは「常識では理解できないやり方」

四回にわたった、口頭弁論は、かなりチグハグで、かみ合わない論争だった。九月九日の沖縄タイムスは「社説」でサンマ課税の問題について書いている。その内容を読むと、サンマ裁判で双方の言い分が食い違っていた「争点」が見えてくる。

「沖縄タイムス」一九六三年九月九日
【サンマ二〇%課税は妥当か】
政府は突然、サンマへ二〇%課税し、局長会議で、これを妥当な措置として確認した。大衆魚としてのサンマの二〇%課税は、まさに沖縄ならではの税率であり、常識では理解できないやり方である。(中略)おそらく布令布告のさいに、サンマ課税が見落とされたのではないかと思う。それを何とか体裁づけようとして、かかげた品目は限定ではなく、例示であるという解釈をとるようになったと考えられる。
しかし、例示の解釈に、行政府自体、疑問をもっていたのは事実である。課税したり中止したり、民政府に照会するやらで、全く自信を喪失した態度であった。局長会議で、課税は妥当な措置として再確認をしたけれども、全員が釈然としているわけではないだろう。民政府書簡が法的拘束力をもつという解釈と関連させて、ムリに再確認したのではないかと推測される。われわれとしては、そういうあやふやな行政府の態度を批判したいのである。