「ブダペスト覚書」はなぜ機能しなかったのか
ところが覚書の規定によれば、米英露の3カ国首脳には確かに「ウクライナの領土的一体性あるいは政治的独立に反するような武力による威嚇ないし武力の行使を慎む義務」(第2条)が課されているのだが、ウクライナが「核兵器の使用を含む侵略行為ないしそのような脅威の対象となった場合」の措置として規定されているのは、3カ国が「国連安保理により、ウクライナを支援するための行為が直ちにとられるよう求める(seek)」(第4条)ということだけなのである。
要するに、ブダペスト覚書による安全の保障は、国連安保理が機能することが前提となっており、これではロシアの行動が問題となったときに全く役に立たないことは自明であった。
2013年11月に、当時ヤヌコヴィッチ大統領がEUとの連合協定への署名を凍結したことに端を発する、首都キーウにおける民衆同士の大衝突(マイダン革命)、並びにウクライナ全土にわたる混乱の中、ロシアはクリミアを「併合」し、ドンバスでは独立を目指す武装勢力を支援して領土の一部を不安定化させる端緒をつかんだ。
これらはロシアによる明らかな国際法違反で、まさにブダペスト覚書が適用されるケースであったが、覚書は当然のごとくに機能しなかった。その際に英米がロシアに対して断固たる措置をとらなかったとして批判する者がいるが、これはそもそも同覚書に内在する問題であったのである。
「核の恫喝」からいかに自国と国民を守るか
ブダペスト覚書の評価について、筆者はウクライナの政治家とよく議論したが、ウクライナにおいても考え方は一様ではない。核兵器は手放すべきでなかったと主張する人たちがいれば、そもそもソ連時代には核兵器の管理はすべてモスクワ中央が行なっていてウクライナには権限がなく、仮に核兵器を残したとしてもこれを実際上維持することはできないので、それよりは米国などからの経済支援と引き換えに核放棄するほうが得策である、と主張する人たちもいた。
当時の状況が実際どうであったかは不明な点もあるが、いずれにせよ事実としてウクライナは核兵器を放棄したのであり、そうであれば核兵器を放棄した国が核保有国から核の恫喝を受けた場合に、いかにして自国と国民の安全を守ることができるのかが明らかでなければならなかった。もちろん当時は、まさかロシアがウクライナに軍事侵攻するなどは夢にも考えられなかったであろうが。